のかなと思う文法

最近テレビのニュースなどで比較的若い方がインタビューされていて、質問にテキパキと、的確なことをスラスラとお話しするのを目にすることが多く、いちいち「エラいわー」とおばちゃん目線で感心してしまうんですが、いつも「ん?」と引っかかってしまうのが、この「のかなと思う」文法です。特にアスリートの皆さんに顕著ですが一般の方もたくさん使っていらっしゃるように感じます。若い方々だけではなく、インタビューやコメント慣れされている方々だと年齢に関係なく使われていますね。例えを出すと:

「これに勝てば、記録となる3連覇ですが、意気込みをお聞かせください。」「そうですね、記録は特に意識していません。目の前の試合を一つ一つ大切に戦ってきましたので、落ち着いて同じように戦っていけば、自然と結果はついてくるのかなと思います。」

「お花見の季節になりましたが、依然として新型コロナの感染は心配されるところです。お花見の予定はありますか?」「そうですね、感染は怖いのですが、お花見をするにしても個人が最大限の対策をとって、マスクをしたり、おしゃべりを控えたり、ソーシャルディスタンスをとったりしていけばある程度は防ぐことはできるのかなと思っています。」

私の中でこの2つの例はなぜか「ん?」と思うのですが、次の例はなぜかひっかりを感じることなく、普通に流すことができます。

「これはデザインが秀逸ですね。どんなきっかけでこのようなデザインを思い付かれましたか?」「一度使っていて持ちにくいな、と感じた時に、曲線を使えば色々な持ち方に対応できるのかなと思って試してみたところ、このようなデザインに落ち着きました。」

つまり、このデザイナーさんは本当に「できるのかな?」と思ったんですよね。だから引っ掛かりを感じないんですが、上の3連覇や感染防止の例だと「のかな?」と思ってない感じがするんです。「自然と結果はついてくると思います。」だとか「防ぐことはできると思います。」とか言わないんですね。あと、微妙に共通しているのが、質問に直接答えていない。

これってきっと長年の世代経験が産んだ必死の予防線なんでしょうね。東京外国語大学の学生さん(?)が書かれた関連の論文を検索で発見したんですが、やはり摩擦を回避するための言葉使いなんですね。断言すると批判されたり反対されたりする可能性がありますが、「のかなと思う」のは個人の勝手、という逃げ場がありますよね。この論文もそうですが「かなと思う」という区切りで議論されることが多いんですね。だからかなり論点が違ってしまうのですが、私は密かに「のかなと思う」と「の」を入れたほうが自分の違和感を説明しやすいです。理由は自分でもよくわからないのですが、「明日は晴れかなと思う」という文と「明日は晴れるのかなと思う」あるいは「明日は晴れなのかなと思う」という文だと、私にとっては後者の方に圧倒的な違和感があります。「明日は晴れかな?と思う」ことは誰にでも普通にありますよね?でもそれが「明日は晴れるのかな?と思っ」たことや「明日は晴れなのかな?と思っ」たことをお話ししていたり、書いてあったりしたら「いやいや『のかな?と思っ』たって言ってないで(書いてないで)さっさと予報を調べたら?」と私だったら即座に思いそうなんですよね。いやいや私も着実に立派なおばさんとしてすっかり歳とりました。

でも言葉は生き物ですからね、私も「違和感ガー」とか「若い方ガー」とか言ってないで、色々な新しい表現方法にも慣れて、自分自身でもちゃんと使いこなせていければいいのかなと思います。

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