オルセーリベンジ、そして謙虚であること

国立新美術館

休暇で一週間日本に帰って来ています。パリで悔しい思いをしたので、旦那さんのAさんに「行く?」と聞いたら「行きたいと思っていた」というので、先日の3連休の中日に早起きして国立新美術館のオルセー美術館展に、結局行ってきました。連休だしものすごく混んだりするんじゃないかと思って開場が10時なので9時15分頃到着してみたら、すでに長蛇の列。と思いきや、特に待ち時間はなく、9時半に早めに開場してくれて5分後には私たちはモネの庭の蓮やタヒチの女たちを至近距離で眺めていたのでした。

1時間ほどゆっくり見て回って、例の「星降る夜(Starry Night)」もしっかり見て(北斗七星もしっかり数えて)展示場の最後の売店で「生まれ変わるオルセー美術館」の特集をしていた雑誌、芸術新潮を購入したあとロビーに出たら、ロビーはひどいことになっていました。でもこれでも待ち時間は1時間と表示されていたので、わりときちんとしたシステムで順次入れているということなのでしょう。さすが日本。ローマではありえません(そもそも観光客以外はこんなに並ばない)。

上の写真は美術館を出てからお約束な感じで、この賛否両論な建物の外観を撮ってみました。この超近代的な曲線に圧倒されるし、なにか強い意志のようなものを感じるので私はかなり好きなんですが、Aさんは黒川紀章氏は内装をコンクリート打ちっぱなしにしすぎ、といってあまり内装は好きじゃないようです。美術品を飾るには主張が少なくていい気がするんですけどね。

こうしてポスト印象派の絵画を見て、黒いふちどりが特徴的でかつちょっと乱暴で破壊的なゴーギャンをまたしみじみと見たので、そのあとふと思い立ってモームの「月と六ペンス」を読み直しました。私の母は、小学生であった私と、中学1年生くらいだった私の姉にこの本を買い与えたのですが(その他のモームの作品と共に)、今読み返せば読み返すほど、当時の小学生の私が理解できたわけのない、意味の深い文章が並んでいます。たとえば「人間はこの世でそれぞれ孤独である。人間は鉄の塔の中に閉じ込められていて、他の人間とは符号によってしか交流できない。ところが、符号は人間同士共通の意味を伝えないので、その意味はあいまいで不確かである。人は心の中の大切な物を他者に伝えようと苦闘するが、他人は受け取れるだけの力を持たない。」や「恋愛における男女の差異は、女は一日中愛していられるが、男はときどきしか愛せない、ということである。」など。

でも、最後のロンドンでのストリックランド夫人とのやりとりと、アタとその息子を思い浮かべて”God blesses those who are poor and realize their need for him, for the Kingdom of Heaven is theirs”とマタイ5-3を引用したくなったという「僕」のくだりはいつ読んでも心をつかまれる思いです。謙虚であることや無知の知のようないわゆるありきたりの教えではなく、(文明社会の)人間というのはもともとイグノラントで驕りのあるものであり、それを失うための唯一の方法は最初からもたないことである、というような救いのない感覚を覚えます。私は幼稚園で母から持たされたプラスチックのコップを運悪く割ってしまった(というよりヒビ割れさせてしまった)ことがあるのですが、泣きながら家にそのコップを持って帰った私に母が、「割れちゃったね、困ったね、でも仕方ないね」というので「どうやったら元に戻るの?」と聞いたことがあります。母はこれを覚えているか分かりませんが、そのとき「割れたコップを元通りにする一番いい方法は、最初から割らないことよ」と言いました。真実であり、納得のいかない答えでもありますが、結局はそういうことなのだと思います。文明社会で、もはや生まれながらに謙虚でいることができない私達は、月だけを追うことはできないのでしょう(ゴーギャンやこの作品中のストリックランドは一般的な「謙虚」とはかけはなれた意味で、月を追うことができたようですが)。だからといって六ペンスだけに生きることもできない。月と六ペンスのバランスを自分なりにどう工夫するかが大事なようです。

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