2週間ほど前に、週末のランニングでカラカラ浴場遺跡まで行った時に、久しぶりなので8ユーロ払って中に入って観光をしてきました。早朝だったのでこのカップルと私以外に人がいない状態でかなり満喫しました。カラカラ浴場遺跡は私の職場のすぐ隣なので、常に近くにあるのですが、なかなか中に入ることもないのでこの機会にゆっくり1時間ちょっと楽しむことができてよかったです。この遺跡では夏になると屋外のオペラをやることも多く、私は今までオペラのために3回くらいここに入ったことがあるのですが、その時はオペラのチケットがあれば入場を許されて、オペラの開演時間まで歩いて回ることもできるんですね。でもそういう時ってオペラに興奮していてなかなか観光というような気持ちになるわけではないのです。
私がイタリアに初めて来た時は遺跡の保護も割といい加減で、実はこの上の写真は立ち入り禁止の柵の前から撮影しているのですが、10年以上前はこの中に平気で入れました。今はこうしてガーデン側から柵越しに写真を撮るだけですがそれでもこの壮大な娯楽施設がローマ帝国時代のAD200年頃に建てられたというその事実だけでなぜかガツーンと衝撃を受けます。そしてしかも、その当時の皇帝がローマ帝国の、もうすでに22代の皇帝カラカラ帝だったことを考えるとさらに殴られたような衝撃を受けます。歩いて回ると、冷たいお風呂、温かいお風呂、熱いお風呂、とお部屋が分けられてい他、と説明されていて、なんだか不謹慎ですが今の日本のスーパー銭湯を彷彿とさせられます。
しかも、上の写真でもわかるように、浴場は実は古くからの図書館の一部であって、図書館には貴重なギリシャの書物やラテンの書物なんかもあったという話を聞くと、最近のスーパー銭湯にある漫喫的な部分にすら(?)感じます。しかも入ってすぐのところには体を動かすジムのような部屋もあって、イタリア語でジムのことをパレストラと言うのですが、当時からその部屋をパライストラと呼んでいたらしいと思うとその歴史と文化に気が遠くなります。しかもここは実は混浴だったらしいし、身分の差も何も関係なくみんながお風呂を同じところで楽しんでいたらしいです。しかも当時は同性愛はタブー視されていなかったらしく、男女と同じように同性でも出会いの場として人気があった、とかいう話を読んだり聞いたりするたびに、またガツンという衝撃を受けます。現代よりさらにずっと進んだ考え方です。そしてあまりにその当時の日本の状況と比べ難く、イタリアには一生かかっても勝てない(何を?)と思ってしまうのです。
上の写真が、このカラカラ浴場でも一番大きかったという長い長方形のお風呂で、ここの壁には2段に人間より大きい美しい石像が飾ってあったそうです。こうしてこのお風呂があった場所の中央部分に立って壁を眺めるとその巨大さと豪華さにとりあえず本当に驚きます。
所々こうして白黒のモザイクの大きなカケラが壁に立てかけてありますが、これはほとんどが半円状だった天井を覆っていた装飾のモザイクの一部だそうです。ギリシャの神話を割と忠実に描いてあったり、一つ一つの白い石が高価な大理石だったり、こうして現代の時間軸で見てもいちいち芸術的であることに普通に驚愕します。
紀元後200年代といえば日本は弥生時代です。やっと稲作を始め、たて穴住居と高床式倉庫を作ることができ、吉野ヶ里遺跡などが代表的な弥生時代の遺跡ですが、いやぁやっぱりレベルが違いすぎると思ってしまいます。こうしてカラカラ浴場が上下水道完備、セントラルヒーティング(イタリア語でイポカウスト、英語だとハイポコースト)施工済み、一見無駄な噴水や石像の装飾、社交場としてのトイレ完備だったりすることを考えると、明らかに当時の人はここをレジャー施設として使っていたと言うことがわかります。吉野ヶ里遺跡では武器や農具、埋葬品や宗教的なものを見ることはあってもみんながレジャーを楽しんだりするものや、いわゆるエンジニアリング的なものを見ることがなく、その差を見せつけられる気がするんです。人生を楽しむことが大事であることをもうすでに知っているローマ人たち。
それでタイトルの勝てない気持ちになるんですが、これはまあ普通に冗談で、もちろん勝ち負けの話ではないし、現代のイタリア人が当時のローマ人のように誰よりも賢いかというとそういうわけでもないんですけどね。でもアメリカに長く住んでみて、中国人と仲良くなって中国語を学んでいろんなことを考えて、こうしてイタリアに住んでみて、それぞれの国で私は常に技術の歴史に触れて、すぐ「うわーアメリカには勝てない」とか「うわー中国には勝てない」とか思いがちなので、単純に影響されやすいだけです。そういった目で外から日本を見ると、間違いなく「うわー日本には勝てない」と思うはずなので、結局どの国も同じように素晴らしい歴史と進化があるんですよね。その上で、私を含め、人間が人間として、あまり学べていなくて進化も実はそんなにできてないことを、現在進行の戦争の状況を見て、再認識させられ、本当に残念に思ったりするのです。