Deserveするということ

大人になってくるとだんだん、つまらないことが楽しくなってきたり、楽しい事がつまらなく思えてきたり、なんだか複雑ですが、どうやら私は物事をわざわざ難しく考えることが楽しくなってきたみたいで、それはそれでつまらないことだなぁなんてダブルネガティブ(そうでもない)な結論に至りそうですが、まあ最近考えていることをちょこっと書こうと思います。ちょっと生意気ぽいような厳しいようなことを書くので、そういうのを読みたくない人にはお勧めしません。
英語にはDeserve(ディザーヴ)という動詞がありますが、辞書をひくと、「(…の)価値がある」だとか「(…を)受けるに足る」だとかいう和訳ですよね。まあ、その通りなんですが、実際の使用法としては、”You deserve it.”などと言う訳ですが、たとえば素晴らしい出来事が誰かに起こったりして、「おめでとう! You deserve it. だってこれまで頑張ってきたもんね!」というような感じの表現だ、というのが一番近いかなぁなんて、個人的には思います。つまり、「頑張り=結果」という評価の褒め言葉、といえば一番分かりやすいですね。


で、おもしろいことに、悪い意味でも全く同じように使いますよね。たとえば殺人犯が死刑宣告されたとして、”He deserves it.”などと言われたりします。「殺人したんだから、死刑は当然だ」というような感じでしょうか。だから少しひねると、たとえば普通に生きてきた人にありえないほどの不幸が訪れた場合、”She doesn’t deserve such a terrible thing.”なんて言われて、「こんな不幸に合うようなひどいことはしてないのに!」という表現になるわけですね。そしてさらにひねると、別に普通に何も努力してない上に尊敬もされず、嫌われているような人が、ものすごい幸運を得ているのを見て、人は”He doesn’t deserve such a reward!”と妬むわけです。
私が今日、書き留めておこうと思うのは、上に出した最初の「おめでとう!」の人と、一番最後の妬まれる人のことなんですが、その前にもうひとつ。先週の朝日新聞のコラムに、恥じらいなき社員の職場破壊 成果主義のストレスというのがあって、「あああ、こういう人いるよね」なんてものすごく納得してしまったんですね。結局は「恥知らず」には勝てない、と思ってしまう悲しさ、無力感、大勢の人が感じた事があるんじゃないかと思います。
私は幸運なことに、この記事に出ているほどあからさまな恥知らずに出会ったことはありませんが、会社の生き残りをかけたような状況だと人の目なんてどうでもいい、となってしまうのも仕方の無い事なのかなぁなんてちょっと思いますよね。でも、それでも、だからといって、勝ち残るために自分も「恥知らず」のような態度を割り切ってとることは、小心者の悲しさなのか何なのか、できないですよね。
でも、でもですね、理想主義だとか非現実的だとか、偽善者主義だとか、幼稚だとか、そういうふうに受け取られるかもしれませんが、私はやっぱり心のどこかで、「絶対、誰かが、どこかでちゃんと見ていて、最後は正しい方が幸せになるはず」と信じていたいんです。そして私は性善説支持者なので(って関係ないけど)、「恥知らず」な人は、多分、「自分が恥知らずだ」と思って「恥知らず」を演じているわけじゃないと思うんですよね。そこまで出来る人もいるだろうけれど、その人ははっきりいって軽蔑されるべき人であって、朝日新聞の記事に出てくるような、一般の「恥知らず」さんたちは、多分、人生のどこかで恥について学ぶのをうっかり忘れてきてしまった人々だと思うんです。
解決法、というと簡単に聞こえますが、単純に「気持ちの切り替え方法」として私は、私にとってのこういう理不尽な状況(恥知らずさん達が自分を踏み台にしてどんどん昇進していくような状況)があったとしたら、私はいつも、”I get what I deserve.”と思うことにしています。つまり、「理不尽な状況に自分が陥っているのは、それは自分が呼び込んだからだ、結局は自分のせいだ」という考え方です。生意気に聞こえるかもしれませんが、そういうふうに考えると、実は、この理不尽状況で一番「勝つ」のは自分になることができるからです。つまり、なぜこのような理不尽な状況になったか、というのを自責というのを基本にして分析すると、その場にいる誰よりも、自分が一番学び、考え、次に生かせることができるようになる、というふうに考えるわけです。
たとえば会社で働いていて、誰か嫌な人がいて自分の成果なのに横取りしていくような人がいて、その人がどんどん昇進していくような状況があったとしたら、厳しいかもしれませんが、そんな人が評価を受けるような会社にいる「自分」のレベルが低い、と思うわけです。そうすると、自分のレベルが低いのは仕方の無いことなので、自分のレベルを一生懸命あげて会社を変わるか、それか自分のレベルに納得して状況を受け入れるか、ということができるわけです。私は昔日本で働いていた時、若かったこともあるとは思いますが、やっぱりいろいろと嫌な事もあり、毎日、「でもこの職場を選んだのは自分だし、これよりハイレベルのところに行けないのは自分だから」と思うことによってなんとなくスッキリしていました。
これは、私のやり方、というだけのものなので、誰もがこの方法でどうにかなる、というわけにいかないのは百も承知ですが(ここからがさらに生意気に、エラそうになりますが)、今まで私はそういうふうに物事を考えるようにしてきた上に、幸運にも、そういうふうに考えない人の中でも、「かならず人のせいにする人」が存在する、ということを知らないで生きてきたんですね。そしてアメリカに来てから出会った人の中に、「かならず人のせいにする人」というのがいて、本当に本当にびっくりしてしまいました。
一番呆然としたのは、その人が、「とある人にアドバイスをしてもらって、そのアドバイス通りにやってみたが、結果がうまくいかなかった、アドバイス通りにせずに、最初から自分が思うようにやれば良かった」というふうに言ったときです。真面目におっしゃるんですよ。まず、プラクティカルに考えて、この結論に私は2つの疑問があります。「アドバイスをしてもらったときに、そのアドバイスを勝手に自分流に解釈した、とは言い切れないのか?」というのと、「アドバイス通りにやった、ってどこまで本当なのか?」というものです。そして当然、声を大にして確認したいのは、「あなた、『アドバイス』ってどんな意味か知ってる???」ということですよね。もちろん、あっけにとられすぎてひとことも声が出ませんでしたが。
でもここで、私は「努力が足りない=結果がでない」という等式を信じているわけではない、ということを強調させてください。私は、「結果がでなかったとき」に初めて、「結果がでなかった=努力が足りなかった」と思う事にしている、というだけの話です。あるいは、「結果がでなかった=自分は結果を出せる、あるいは出す状況にない」というふうに思うわけです。つまり、”I don’t deserve it.”だと思うことにしているわけです。”I get what I deserve.”という考え方です。
さらに生意気になりますが、たとえば私に良い事が起こった時、同じように私は、その出来事を私がdeserveするかどうかを一生懸命考えるようにしています。「ラッキー」としかいえない大きな出来事が起こったときは、私は”I don’t deserve it.”と思ってしまいますが、ちゃんと自分が努力してきて、頑張った時に良い出来事が起こると、”I deserve this.”と自分でも納得しながら思うことにして、喜びを最大にして受け取るように心がけています。これが正しいとか間違っているとかそういう問題ではなくて、これは単純に「ひとつの考え方」であって、私は、そういうふうに考えるようにしているだけですが。
ここで、自分が”deserve”しないことを自信満々にやっている人を、要は、「恥知らず」といううんじゃないかなぁとふと思うわけです。たとえば私の関係する栄養学に関して例を考えるとすれば、超難関有名大学なんかで4年間、法律について学んできた人がいたとして、その人はとにかくアタマがいいわけですよね。難しい受験を突破して、法律を勉強して。そして、趣味でちょっと健康食品なんかに興味を持っているとしますね。で、趣味が高じていろいろ本なんか読んで、勉強するとします。そして本を書いたりして有名になったりして、まるで「健康食品の権威」のような立場になったりする人のことです。これは私が今頭の中でつくりあげた人物なので、こういう人はいないと思うんですが、私はその人がどんなに自主的に勉強したとしても、どんなに頭が良かったとしても、やっぱり”deserve”しないと思うんです(一般的に)。いわばキツい言葉で言うと「恥知らず」です。大学で学ぶ事が大事、といいたいのではなく、やっぱり、「栄養学」を学ぶ、ということは全体図を見ることなので、「健康食品」だけを集的に学んだだけの場合とは理解の深さが違うわけなので、そのあたりはちゃんと自分で、「だって私はちゃんと勉強したわけじゃないから、『権威』のような立場になるべきではないわ」とどこかのポイントでちゃんと自戒をして、自分がそれをdeserveするかどうかをちゃんと見極めなければいけないと思うからです。もちろん、そこでちゃんとdeserveする人もいますよね。
私がアメリカに8年住んだからといって、英語の先生になれるかというと、私は英語は自分でちゃんとしゃべったり聞いたり読んだり書いたりできるし、「こういうふうに勉強するといいよ」というアドバイスはできるけれど、「英語を教える方法」も勉強していない上に、「言語学」としての「英語」を理解しているわけではないので、私は、”I don’t deserve it.”という結論を自分に下すわけです。極端な話、日本語だって同じです。私は日本語ぺらぺら(!)ですし、アメリカ人に「日本語ちょっとおしえてよ」と言われて調子に乗っていろいろスラングなんて教えるのは大好きですが、私は「言語学」としての「日本語」を勉強していないし、「日本語を教える方法」も勉強していないので、「先生」になるには、同じように、”I don’t deserve it.”と思うわけですね。だからはっきり言って、私が自分でぎりぎり、私はdeserveする、と思えるのは栄養学だけなんです。
世の中には本当に多才な人もいて、いろんなことが出来る人もいますが、私はどうやらひとつだけみたいです。だから「恥知らず」にならないように、栄養学の中でも、もちろん他の分野では特に、常に、私はそれに見合うか、価値があるか、受けるに足るか、ということを考えながら地に足をつけて暮らしていきたいなぁ、とふと思ったのでした。

4 Replies to “Deserveするということ”

  1. これ読んで、なんか考えさせられたよ。
    今の職について。まだ10日ぐらいしか経っていないのだけれど、私が感じることは、I don’t belong here…なの。毎日業務報告書をあれこれ書いてるけど、これからなにか企画して結果だしたとしても、私にはそれこそI don’t deserve it..なのかも(てか出せないかもしれない)。だってさぁ、そんなに情熱持てないし知識もうっすい。仕事もおっそい。でも、ほかのところさっさと探すより、勉強の期間だと思ってがんばってみる・・・。努力しないであきらめるより、努力した結果だめだった、なにか間違えてたみたい?のほうがまだマシだよね??

  2. ひろみ:そうね、努力の前に結果を考えるのは本末転倒だもんね。頑張ってみて、うまくいかなかったときの楽天的な考え方、とでもいえばいいのか、私はこういうふうに考えてるというだけの話だから。努力せずに「合わない」とか思うのは、ひろみが書いているように、良くないよね。頑張って!

  3. とっても関心して読みました。 同感できるところがたくさんありました。 私も、そんな感じで道を進んできていますが、努力してみた結果ダメだった?!?それともまだもう少しやってみようか?という岐路に立っています。自分が考えている道を進めるのが一番いいのですが、その下準備ができていないということなのか、それに気づくのがちょっと遅めだったようです。巻き返しに一苦労していますが、いろいろ試行錯誤して納得できる結果をにたどり着けるように努力できる土台を築きあげることからもう一度はじめようと思っています。(1つに固執しないで、可能性を最大限に広げてみようと思いました。)

  4. Shizukaさん:そうですねぇ、本文にも書いているように、私のこの考え方は、「ダメだった」と、自分で結論を出したときに初めて、「言い訳」というと言葉は悪いですけど、「楽天的」に考えるために、”This is what I deserve.”と納得してみる、という感じですので、Shizukaさんの場合には当てはまらないかもしれませんね。でも何かの途中にいるときには、早々とひとつに決めないで、Shizukaさんも書いてらっしゃるように、いろんな可能性を見てみるのは大事なことですよね。

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