お付き合いは植物から

ニューヨークは雨が降っているらしく、リンジーダベンポートと浅越選手の試合はちょっと開始が遅れています。私は今日は早起きをして仕事を3時間し、そのあと試合を観戦したあとオフィスに行こうとスケジュールを決めていたんですが、このままだと見ないままオフィスに行かなければいけないかもしれません。残念です。でも昨日の夜、テレビでジムクーリエが、「浅越選手は今この場所にいる事自体がハッピーなことだと思うから楽しんだらいい」と言っていて、「残念だけどリンジーには歯が立たないでしょう」と言ってたんですよね。なんだか愛国心からすると、悔しい気分がするコメントですけど、でもまぁ、この夏のリンジーの試合っぷりを見ている限り、真実だろうなとも思います。
で、だからというわけではないのですが、今日は私が育てている鉢植えガーベラの話をしようと思います。全然関係ないですね。

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歴史と常識

最近思うことなのですが、海外に住んでいるということが原因で、物事を不思議なほどまじめに考えることが多くなったなぁと思います。もしかしたら不必要なほどにいろいろ細々としたことを真面目に考えていることがあります。
実はそれは、私に身近な国際的な交流があるという意味で、背筋がおもわずピンとしてしまうということが一番大きな理由かなと思ってしまいます。ふとした瞬間でも、いろいろといい加減に考えてられない、と思ってしまう。別に私がはりきって日本国を背負っているわけではないので、そんなに真面目になることもないのかもしれませんが、例えば、今思い浮かべるだけでも、私には、中国人、韓国人、タイ人、インドネシア人、アメリカ人、メキシコ人、カナダ人、ノルウェー人、ドイツ人、デンマーク人、などなど、それぞれ少なくともひとり以上と、通常の友人関係(会う必要はなくても会うという関係)だったことがあり、一緒にただ単に時を楽しく過ごすということをしたことが、その「何でも真面目に考えてしまう」という私の行動に影響を与えたと思います。

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一体全体、何がどういうふうに問題なのか:環境ホルモン

しばらく前に書いた、「イグノランス」の記事を前書きとして読んでいただきたいんですが、読んだ方も読んでない方も、「キレイ事じゃん」とか「問題が大きすぎる」とか「他に大事な問題がある」とかなんとか言わずにちょっとだけ読んでくださると幸いです。私もよく分かってないので、難しくは書いていないと思うので多少は読みやすいかと思うんですが。まず、環境ホルモンって言われても、漠然としていて「つまりなによ!?」と私は思ってしまっていたんですが、整理してみます。基本的には、「そっくりさん」です。ホルモンの。しかも邪魔なそっくりさん。これじゃ言葉足らずだと思いますのしっかり説明すると、

環境ホルモンとは、「内分泌攪乱物質」と呼ばれ、環境中に放出れた、化学物質の中に、あたかもホルモンのようにふるまう物質があり、本物のホルモンの働きを攪乱してしまう、というような物質のこと。

という説明が一番しっくりきますね。英語ではEndocrine Disrupting Chemicals (EDCs)と呼ばれることが多いです。いつ、この言葉ができたかというと、1996年です。当時私はアメリカに来たばかりだったんですが、ニュースでベストセラーの本、”Our Stolen Future”(直訳は「私たちの盗まれた未来」、邦訳の本は「奪われし未来」という題だそうです)というのが頻繁にとりあげられていて、「どんなSF小説だろう?」とぼけーっと考えていたんですが、実は環境ホルモンの本だったのですね。おバカな私。その本は、今まで別々の研究として、化学物質が生物に与える影響などが発表されていたのを、コルボーン博士という女性がまとめあげ、出版したものなのです。日本人は実はこの「別々の研究」として発表されていたものをものすごく身近に学んでいるんですよ。水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症事件、などなど「おお、あれも環境ホルモンであったか」と思うようなものばかりですよね。アメリカ軍が責められている、ベトナムの枯れ葉剤、イラクの劣化ウランなどももちろん、環境ホルモンです。

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イグノランス

最近考えることで、私が特になんとなく引っかかってしまうことのひとつに、”Ignorance”の問題があります。Ignoranceは日本語では、新英和中辞典(研究社)によると、簡単に、「無知、無学、~~を知らないこと、不案内」などと訳されていますが、英英辞典をひくと、”lack of knowledge about a thing in a being capable of knowing”ということで、つまり、日本語だと、意訳ですが、「知ろうとしようとしない(知ろうとすればできるのに)がためにある事に対する知識がないこと」とでもいいましょうか。もっと簡単に言うと、「無知の知を自覚しようとすらしていないこと」と強く言うことができると思います。知ることはできるはずなのに、知ろうとしない図々しさ。

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かけ違えたボタン

なんだか詩的なタイトルにしてしまいましたが、これから私が書きたいのはつまり、「かけ違えたボタンはまた最初から全部外して、かけなおせばいい」というようなことです。「とりかえしのつかないこと」というのは、主観的な感想(自分がとりかえしがつかないと思うからとりあえしがつかないだけ)であって、そんなのないと思えばないのだと思うのです。って、実は私が、ある事を「とりかえしがつかない」とは思いたくなくて、なんとかして改善したいと強く願っているからなんですけれどね。自分に言い聞かせているだけです。

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