ドゥバイで私も考える

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先週はドゥバイで会議でした。上の写真はドゥバイ未来博物館。将来の食糧保障を考える上で、世界の国々はそれぞれの立場で様々な困難を抱えていると思いますが、中東はそんな意味でも特殊な位置にいるといえます。化石燃料資源に恵まれていてリッチで先進的なイメージのあるドゥバイですが、貧しい漁村だった1966年に石油が発見されてから国がお金持ちになるまでがものすごく短かったため、経済的な成長と国の能力的な成長に差が出てしまっていて、お金はあるけれど(能力のある)人がいません、という状況になりやすいのです。これは近隣のアラブの国々でも同じではあるんですが、資源があるところとないところでは貧富の差が激しすぎます。そして砂漠の多い地域では気候変動の問題が日本やヨーロッパにいる私なんかが感じるよりもずっと深刻で身近です。毎年のように最高気温の記録が上がっていて一般の人でも日々そこはかとない恐怖を感じるそうです。しかも肥沃な土地が少ないため農業が発展しているとは言い難い上に、リッチであるがために農業に従事しようという人は少なく、自給率はたったの17%で、日本よりもその低さは深刻です。それなのに地政学的には世界の中でも不安定な国々が地域に集まっていて、食糧危機に備えるために必須である地域内での多国間の協調や共同活動が難しすぎるわけです。これでもうすでに泣き面に蜂状態なのにさらに、土地柄水不足が常態化していて、しかもドゥバイでは先日の2年分の雷雨での大洪水に見舞われるわけですから一体何をどうすればいいのか、そこから手をつければいいのか、という政府の人々も少なくないです。国連のプロジェクトだと、途上国では「もうすこしお金があれば」というような状況もよくあるのですが、ここでは「お金はあるのに」という話し合いになるのがかなり特殊です。

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会議では基本的にはテクノロジーを使った新しい食品の生産について話し合ったのですが、食品安全の観点から言うと、食品は食品である以上いかなる方法で生産されるとしてもその安全性は保証されるべき、という、一見当たり前なのですが意外に見落とされがちな私(の属する組織)の立場を世界の専門家の皆様と一緒に作成した科学的助言と共にお伝えしたんですね。私の担当は基本的にテクノロジー(バイオテク、ナノテク、培養肉、プレシジョン発酵など)に関する食品安全評価ではあるのですが、動物性タンパク質に代わる食品が求められることが多いため、注目が集まりやすい植物ベースのタンパク源について助言することもあります。上の写真はドゥバイのシェフが作った様々なサリコルニア(シーアスパラガス)を使ったデザートや軽食、ドリンクなどです。私はチーズと混ぜたディップがすごく美味しいと思いました。

ちなみにこれは私個人の意見ですが、食品界における最新のテクノロジー利用というものは、世界の食糧危機を突然一発で解決する、というような性質のものではなく、確立されてこそ、一つのツールとして将来の選択肢を増やす、という意味でとても重要なものだと考えています。つまり、将来の食糧安全保障のためには、食品開発へのテクノロジー利用は基本的には推進されるべきで、必要な研究には投資されるべきだと思っているわけです。どういうことかというと、技術というものは常に「成長」するものなので、最初のプロトタイプがいきなり最終型になることがない、という必至の現実を考えると、2024年の今現在研究されている食品科学の最終型は数十年後にしか完成しない。そしてその頃には食糧危機が始まっている可能性がある。だから今その研究をサポートしておかないと、選択肢が減ってしまう上に、テクノロジーの成長に伴って必要になる個々の食品安全評価が「成長」できない、ということを指摘したいわけです。

ここからは食品安全に詳しい方には当たり前の話になってしまいますので必要ない方は読み飛ばしてくださいね。テクノロジーは怖い、とか人の手が入った食品は「ナチュラル」じゃない、とか思う人は多いですよね。でも今私たちが食べているすべてのものには人の手が入っています。テクノロジーもたくさん使われています。原始的に地球上にあった食用の植物や動物はもはや存在せず、すべて人間と共に共存し、品種改良されてきたものを私たちは食べているわけですね(品種改良といえば遺伝子組み換えよりは聞こえがいいかもしれませんが、結果論で言えば起こっていることは同じです。品種を改良する、ということは遺伝子レベルで特性を変える、ということです)。こういった食料そのものの安全性の確保も大事ですが、人の体に危険なもの(バクテリアやウィルス、化学物質や物理的な混入物)が生産製造の段階で食べ物に入り込んでしまう可能性はどんな食品であってもありうるわけなので、食品が「どのように」生産されるか、ということがしっかりわかっていないとその確保ができなくなってしまうわけです。

また、これも見落とされがちな事実なのですが、食べ物というものは「自然のまま」だと安全ではないものが多いのです。生のお米を食べたことがある方は少ないかと思いますがある程度食べると確実にお腹を壊します。お米にはもともと人間には分解できないタンパク質が入っているからです。生のお米は水や土からの微生物がたくさんついていて、それが病原性のある菌やウィルスである可能性も低くはないわけです。それを人間の私たちがちゃんと加熱することによって「安全」に食べれるようにしているわけですね。ですから「自然だから」とか「オーガニックだから」とか「人の手が入っていないから」とかそういう単純なパラメターで安全性を考えるとかなりうっかりすることになります。母なる地球が作る「自然」なものには恐ろしい毒が含まれていることも多いことを忘れてはいけません。「人の手が入っているから」こそ食べ物が安全になっていることがほとんどなのです。昔の人が「自然な」危ない食べ物を間違えて食べて死んだり病気になったりした過去があるからこそ、現代の人がその間違いから学んで食べ物を選び、安全にしてから食べれるようになっているわけです。その「人の手が入っていること」の重要さを無視すると、そうやって命を落としたかもしれない昔の人から学ぶことができなくなってしまいます。

そういう意味で私はテクノロジーが好きです。学びの集大成とも言えると思ってしまいます。そしてそれが使える技術として昇華されるためには、やっぱり推進するしかないと思っています。もちろん人間なので間違うこともあります。テクノロジーを間違って使ってしまうことなんてたくさんあるし、悪い人の手に渡れば恐ろしいことになることもよくある話です。私たち人類はその例もたくさん見てきましたよね。でもそれでも、怖いから、という理由で避けていてはいけないと思うのです。なぜなら悪い人は避けないから。そういう時に良い人がテクノロジーを避けていたら悪い人の一人勝ちです。良い人側の私たちがテクノロジーを推進して、理解して、改善に改善を重ねて、悪い人に利用されないような最善の策を練って、そして安全性を担保できるシステムを作ってこそ将来の難しい多々の問題に向かっていけると思っています。

今日は真面目か、という感じでしたが、私は世界平和や食糧危機、気候変動などたった一人の人間にとって全く無力に感じてしまうような、世界全体で立ち向かわなければいけないような大きな課題のことを考えるとき、重視しなければいけない分野が3つあると思っていて、それは一に教育(国民全体の基礎の力を上げる)、二に科学技術(天才・秀才とクリエイティブな人々を尊敬して大事にして投資する)、三に話し合い(人は違っていて当たり前なので違いを理解する、それができない場合は少なくとも違いがあることをお互いに確認する)なんですね。1と2は日本をはじめいろんな国が頑張っていると思いますが、3は「へ?」という感じかもしれませんよね。私は日本を含めて4カ国に住んで「常識」という言葉の危うさを身をもって体験してきました。「常識」を持つことを期待してそれをみんなで守っていくのは一つのホモジナイズされた社会の動き方かもしれませんが、多様化する世の中で「常識」ほどお互いの理解にとってマイナスなものはありません。ドゥバイではどんな場所に行ってもお客さんのほとんんどがアラブ系、あるいは欧米系で、そこに東アジア系(中国、日本、韓国など)が少し混じっています。そしてサービスする側はインド、ネパール、バングラデッシュなどの南アジア系、フィリピン系、あるいはエジプト系です。みなさんニコニコしていてとても良いサービスですがその2つに分かれた人々が交わる場所は本当に数少ないのです。なぜと言われても多分社会的クラスが違うというしかないのでしょう。私が日本で培ってきた常識はここでは(この問題では)通じないし、ここの常識は私には理解に時間がかかるのです。こういった何かを一瞬で「良い」とか「悪い」とか自分の「常識」物差しで測るのは簡単ですが、これについて私はちゃんといろんな人と話してから自分の意見を形づくりたい、と思いました。ドゥバイでもかなり考えましたが考えが一定方向に向くにはもう少し時間がかかりそうです。

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