間にいる人から「受け取らない」

つい先日、何かのエッセイを読んでいて、そのエッセイにブッダの教えを引用している部分がありました。その教えというのが、「例えばある家の主人が客人に出した食事を客人が食べない場合、その食事は結局その家の主人のものになる」というようなものだったんですね。つまりどういうことかというと、客人にとっては、不要のものを「受け取らない」という選択があり、それが選択された場合はその「不要のもの」は主人の元に戻ってきますよ、と教えているわけです。例えるなら、悪口とか、ジェラシーとか、投げつけるような言葉とか、嫌な気持ちとか、そういうものを「私は受け取りませんよ、どうぞご自分でどうぞ」ということができる、ということです。そしてそうするとなんと、それらの悪口やジェラシーや嫌な気持ちは最終的にそれを出した「主人」の元にブーメランのように戻ってきて「主人」のものとなる、ということらしいです。

それで思い出したのが、私が幼い頃、同じクラスにいたYちゃん(仮名)のことです。その子はいろんな同級生と仲良くするのが上手でかなりの情報通でした。そういう子が、真実もそうでないものも全て含め「ねぇねぇ、AちゃんがBちゃんのことをXXXって言ってたよ」という感じの情報をクラスに伝達する役になるわけですね。私はそのYちゃんの立場になったことがないので、何故Yちゃんはそんな役目を担いたいのか、なぜわざわざ知らない人に嫌なことを伝えるのか、とかそういうことを理解することができないんですが、聞いてみると、「だってAちゃんひどいじゃん、Bちゃんのいないところでそんなこと言うなんて」という憤りと共に割とちゃんとした正義感というか善意のようなものが見え隠れするわけです。でもここでちょっと難しいのが、Yちゃんはだからと言って、最初から最後までBちゃんの味方に完全に徹するというわけでもないわけなんですよね。そこでその伝達事項を「受け取って」しまったBちゃんが、怒ってうっかりAちゃんのことについてもっと酷いことでも言おうものなら、今度は逆にYちゃんからしてみると「ねぇねぇAちゃん、Bちゃんがこんなに酷いこと言ってたよ!」という感じにもなりうるわけです。まぁ、一言で言って幼稚、と思えばそれで解決なんですけど、今時の芸能人の不倫なんかを報じるテレビ番組もまぁ大体そんな感じなので、そういう役の人がいて、それを真剣に受け取ってしまう人が大多数である、という意味では大人も子供も変わらないということなんでしょう。皇族の方々の結婚に物申す人々なんかも大きな意味ではこの仲間にしか見えません。

こういうことが他人事のうちは特に何も考えない人が多いかもしれませんが、それではうっかり自分がAちゃんやBちゃんの立場になってしまった場合どうするのか、となりますよね。そこで便利かもしれない、と思ったのが上記のブッダの教えです。つまり「受け取らない」という選択をすればいいのではないかと。これはある意味ちょっと間違うと、Yちゃんを敵に回す形になるのでうっかりするとうっかりするんですよね。でもまぁ基本的にYちゃんは実は野次馬と変わらない立場にいるので、言い方に気をつければ大丈夫だと思います。例えばBちゃんの立場で言うと「Yちゃん私のことを心配して教えてくれてありがとう。でもYちゃんにこれ以上ご迷惑がかかるといけないのでこのことはひとまず聞かなかったことにするね。だからYちゃんもこれ以上このことを誰にも言わないでくれる?Aちゃんの気持ちも聞いて理解したいし、このことはAちゃんと二人で解決するから大丈夫。」とにっこりしてこの問題をYちゃんのお家にブーメランお持ち帰りしていただくわけです。そしてもしこの問題がこれから大きくなるとしたらYちゃん自身が大きくしているかもしれないんだ、と言うことを暗に示唆するのも意外と大事かもしれません。そして、本当に聞かなかったことのように忘れてしまうのです。そしたらAちゃんがそんなことを言ったかどうかなんて問題の本質ではなくなるんですね。BちゃんがAちゃんのことを好きで、Aちゃんと仲良くしたかったら普通に仲良くしたらいいし、仲良くしたくないんだったら、この問題に触れずに距離を取ればいいだけ。Aちゃんが自分のことをなんと言ったかなんて、そのこと自体は全く重要でもなんでもなくなるはずなのです。

こういう一見くだらなく、幼稚な事象を、こんないい大人になってから真面目に再訪しなければならないこと自体がそこそこ情けないことではあるんですけど、大人の皆さんならわかってくれると思います。どんな世の中でも文化も言語も性別も年齢も問わず、この「間に入ってなんやかんや言う人」問題は常にありますよね。大事なのは問題となっている「事柄」に対する「自分の考え」であって、実は「相手」ですら大した問題ではないはずなのです。Aちゃんが実際になんと言ったか、なんてどうでもよく、Bちゃんがこれからどうしたいかということを見極めることの方がずっと大事な問題です。その本質に集中するためには、この「間に立っている部外者」というのが非常に邪魔なわけですね。なぜならその「間にいる人」は実は野次馬と変わらないし、確固とした信念を持って間に立っているわけでもないし、一生何があっても味方をしてくれる人な訳でもない。「偽善者」と言ってしまいたいところですが、そう言うと語弊があるかもしれませんね。だって「偽善者」は実は見極めが難しいのです。問題が起こっている最中はその人は本当に、心の底から良かれと思って行動しているかもしれないので、実は本人ですら自分がやっていることの偽善性に気づかないわけですね。

もしうっかり「間にいる人」に遭遇してしまい、その人が伝達式の何か嫌なことを報告してきたとしたら、自分の中のアラームを鳴らして、お腹いっぱいの時に出された、あんまり美味しくない食事、と思うことにして、「受け取らない」という選択をする、というスキルを使うことにしよう、と思いました。「間にいる人」からの情報って往々にしてろくでもないことが多いし、丁寧にブーメランをお返しして、本当に聞かなかったことにしてしまう、そんな悟りが開けたらいいな、と思いました。そしてBちゃんの立場でこういう問題が起こったら、AちゃんよりもYちゃんと距離を取ることを選んだ方がより良い結果が待っているような気がしてきました。なんだかくだらなくて今日はすみません。

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