ひょんなことで、最近のアメリカのメイハム状態からのBlack Lives Matter運動に関してアメリカの作家、タナハシコーツ氏がインタビューに答えている記事を目にして、動かされたというようなものとは違うレベルで感情がざわざわしたのでちょっと書いておこうと思います。まず、冷めた目で世界を見ると、世界で今起きている出来事なんて、99.9999999999%の確率で全然新しいことなんかじゃないわけです。良い人、意地悪な人、攻撃的な人、弱い人、強い人、強さを装ったすごく弱い人などなど、いろんな人がギリギリの境界線の中で違うタイプの人になっていて、そして全ての行動や言動を正当にも不当にも正当化し、正しくても間違っていても自分が正しいと思い込み、打算で動いたり、仲良くしたり戦ったりしていいことや悪いことを、それと知っていて、あるいはそれと知らずに行う。そんなこと何千年も前からずっとずっと続いている全く新しくないことなわけです。で、この21世紀になって、果たして何が新しいのか、となったときにものすごく違うのが、そう言った人間の行動や言動が、他人の目に触れるに至るまでのプロセスが新しくなっている、というわけです。
例えば従来からあるメインストリームのメディア(テレビや新聞など)は記者さんがちゃんといて、それをジャーナリストの善良な気持ち、あるいは野望に染まった気持ち、そしてときには邪悪な気持ちが混ざりあいながら一つの出来事が色々なサイズにスライスされてアングルも設定されて人々の目に留まるようになっていくわけですよね。ある意味では公平とも言える形になりうるし、そのほかの意味では一方的に話を曲げながら見せたい側が見せたいように人々を半ば操るような形にもなりうるわけです。それが、この2020年には、それとものすごく似ているものを、誰かのスマホのスクリーンやソーシャルメディアの意見などから見るようになるわけです。結果としては上のジャーナリストと同じように、サイズもアングルも変えることができるわけなのでそこまで大きな変化がないように感じられますが、そこに少しだけ少ないかもしれないものは、確固たる信念と、事象や意見などのバランスをとる意識、結果に対する責任感、そして発信者としての方向性でしょうか。
これは良し悪しの問題ではないので結論の出しようがないし、しかも、私がこうして一個人としてこういうブログに書いて垂れ流している時点で、全くの説得力がないのですが、結局、情報を受け取る側の「知性」がどうしても必要になってくる、という当たり前のことにぶつかります。どんな世の中でも、デジタルでもアナログでも、何歳になっても、一つの情報を見たときに、それがどんな情報だったとしても、「バランス」をとる意識がほぼ自動的に持てる、ということが本当の意味での頭の良さの証拠になりうる、という意味です。つまり、例えば受験勉強などで色々と勉強して暗記したり知識を増やしていくことによって、結果的に自然に多くの「視点」のようなものを得ることができますよね。本をたくさん読む人もその「視点」が増える可能性があります。そのようなことを「頭が良い」と定義したとすると、こう言った情報リテラシーのようなことを考えたときに、努力をした頭が良い人こそ、よりたくさんの「視点」を想像することができ、したがってバランスをとる意識ができ、方向性、信念、結果への責任のようなもの、つまり意見を持つ覚悟、のようなものが芽生えると思えるのです。
そうすると、私はアメリカ人でもないし、黒人でもないけれど、私は日本人で、アジア人であるので、そう言った別の意味での「理解」あるいは「理解しようとする心」でタナハシコーツさんの本を読むことになるわけです。そしてガツンと無知(あるいはイグノランス)を指摘され、それに多少なりとも傷つきながら、でも、それでもやっぱり理解しようとしたい、私が世界を変えることができるとは思わないけれど、世界と私の間にそんなに大きな距離があると決めてはいけない、と思うようになるわけです。そしてこうしていい歳した大人になってからですら、できればより良い大人になりたい、と思ったときに、ああ、勉強していて頭が良い人ははいいなぁ、と心の底から思います。羨ましがっているだけでは仕方ないので、少なくともこれからでもやらないよりはマシと思って精進しますが。タナハシコーツ氏の2015年のベストセラー「世界と僕の間に」の邦訳のリンク下に貼っておきます。私は原文で読みましたが、これを邦訳するのは大変だったんじゃないか、と思ってしまうような、意外にも現代的な原文でしたので、英語が分かる方は原文の方がもしかしたら理解のためには簡単かもしれません。