「ことば」という不明瞭なツール

ここ数年間、定期的に考えることなのですが、人間は種類は違うとはいえ、言語というものをあみ出して、その言語さえ通じればほとんどの意思の疎通が可能になった、ということで種として発展してきた、という事実があるのは誰でも知っていることだと思います。でも、同じことばを話すからといって、どんなに長い時間しっかり話し合ったって「なんだか分かり合えない」ということがあるのも、これも誰もが知っていることだと思います。それはもちろん、人間が基本的に、その度合いに違いはあるとは言え、嘘をつく生き物であるからというのがあります。嘘、というと語弊があるかもしれません。体裁を繕う、あるいは当たり障りのない言い訳をつける、といったそういう意味合いです。

また、たとえ嘘をつかなくても、根本的な考え方が違えば、わかり合うことが突然困難になります。例えば、「明日連絡するよ」と言ったのに連絡してこない人がいたとして、その人にとってみたら、仕事じゃないんだからそんなにガチガチに期日を守る必要がないと思っていて、その日に連絡しなかったとしますね。その人にとってみたら「明日連絡するよ」は社交辞令のようなもの、あるいは「今日は連絡できない」ということの裏返しなだけかもしれません。でも相手からしてみたら「明日連絡する」という字面通りの言葉で、次の日になって連絡がなかったとして、「連絡するって言ったから待ってたのに連絡してこない!」と怒ってしまう、ということが起こるわけですね。こういうものは、もしかしたらどんなに話し合っても、最終的に「そっかそっかそうだったんだ、あははは」と完全和解できるようなことではないかもしれないのです。なぜならそのことに関する根本的な態度と考え方がお互いに違うから。同じことを「大したこと」と「大したことでないこと」と捉えるのはあまりに違いますよね。どんなに完璧に同じ言語を話していても、言葉には限界があるわけです。

さらに、ここで言語が違う場合のことを考えるとさらに頭が痛くなります。英語だとこう言った話題のことを「コミュニケーション(学)」として捉えるわけですが、カタカナにしてみてふと思うのは、日本語で「コミュニケーション」とは何でしょうか。「通信」とか「伝達」とかそう言った言葉が思い浮かびますが、今一つ、私が言いたい「コミュニケーション」とは違う感じがします。でもまあひとまずそれが「伝達」や「通信」だったとして、じゃあ何を伝達したり通信したりするのか、というと今度はまたカタカナの「メッセージ」という言葉が出てきます。「メッセージを伝える」のが「コミュニケーション」である、と私の心が言っています。でもだったら、「メッセージ」も日本語にしようよ、と思いますよね。それで辞書を調べてみると「ことづけ」だったり「伝言」というのがまず出てきて、いやわかるよ、それも「メッセージ」だけど、ここで私が言いたい「メッセージ」ではない、となります。さらにみていくとやっと、情報通信研究機構(独)さんのページにわざわざ「コミュニケーションが伝えるもの」という括りで「内容、中身、中味」とあるではありませんか。つまり「内容を伝える」のが「コミュニケーション」ということになります。言われてみればまさにその通りなんですが、何という廻り道。

で、さらにレベルアップしますね。ここで、何かの「内容を伝える」ためには、「上手に」伝えないといけない、という事実があります。それが込み入った内容だった場合はさらにその「上手さ」が大事になってきますよね。私が仕事で扱っている食品安全のことも、科学的な内容が入るのでやや込み入っているといえば込み入っています。例えば、とあるスーパーで売っている鶏肉にサルモネラ菌が入っていたとします。もちろんスーパーは回収をかけます。仕入れ業者も念のため他の鶏肉関連の製品も自主回収することにします。で、ここで政府などの責任者は「コミュニケーション」に乗り出さないといけないわけですね。思いつく限りの質問には「サルモネラって何」「どうして鶏肉にサルモネラがついているのか」「どんなリスクがあるのか」「誰か死んだりするようなひどいことなのか、それともお腹が痛くなって終わるくらいのことなのか」「そのリスクは今から回避できることなのか」「もし消費者が既にそれを買っていたらどうしたらいいのか」「病気になったり被害を被った場合誰が補償するのか」「スーパーの売り上げが落ちたら誰が責任を取るのか」「それが2度と起こらないようにするにはどうするのか」「一体全体誰のせいなのか」「抜本的解決方法はあるのか」などなどが考えられますね。そして伝えるべき相手は一般消費者、ということになります。そしてここでとりあえず、みんな困るわけです。

なぜなら「一般消費者」というものは一概に性格づけられない団体だからです。食品安全に詳しいはずの私だって一消費者です。科学者もそう、音楽家もそう、文学者もそう、ホームレスの方だって消費はします。じゃあどういう風にしたらいいのか、となったときに、いわゆる「コミュニケーションの専門家」という人に助言を求めることになるわけですね。そしてその専門家の皆さんが必ずいうことがあります。「30秒以内で、小さな子でも分かる簡単な言葉を使って、大事なことを全て、白黒つけてハッキリ言ってください」です。ちなみに、30秒とは3文、と思っていただいていいです。で、大体の私が知っている科学者や、科学を基礎として勉強してきた専門家はここで爆発します。どんな無理難題を押し付けようとしているんですか!科学というのはそもそも白黒つけられるものではないのですよ、と。大体のことにはグレイゾーンがあって、科学には必ず例外というものがあります。「サルモネラ」のことを説明するのに「病原菌」というのが難しすぎるとしたら他に使う言葉がないよ、と。「リスク」という言葉を使うな、だと!じゃあ自分に言えることはない!と叫んで諦めたくなります。そしてさらに悪い例だと、科学者や専門家が、消費者をバカにして上から目線で「何にも知らないんだな、勉強してこい」という態度に出ることすらあります。

でもね、私は当たり前のことに気付いてしまいました。皆さんはもう既に気付いていることだと思うんですけど、それは「聞く人がいなかったら何を言っても意味がない」ということです。つまり、相手に興味すら持ってもらえない、専門用語だらけの事柄ををどんなに長々と嬉々として話しても、相手が聞いてくれなかったら、何を言っても、言わなかったのと何も変わらないのです。だから、どんなに自分の信念と違っていても、「簡単な言葉で白黒はっきりまとめた3文」を譲歩しながら無理やり作り出して、相手が聞いてくれる形にしなければ、「上手な」コミュニケーションになり得ないわけです。そして、私がどんなに世界中の食べ物を安全にするための努力をしていたとしても、最終的に一般消費者の人々が食品安全とは何かを分かってくれなかったら、私の努力は無なのです。つまり、「上手なコミュニケーション」というのは想像しうるありとあらゆる分野において「必須」なのです!

上の例だと、コミュニケーションの専門家ではない私なんかはまず、こういうことを考えるわけです。「えーっと、まずサルモネラについて説明しなきゃね」「鶏肉にはよくついてるんだよね、汚い話だけど基本的には糞由来の病原菌だね、土壌とかにもよくいるね」「サルモネラはまあどこにでもいる菌だよね」「でもスーパーにある鶏肉にサルモネラが入ってたらやっぱり汚いし良くないね」「サルモネラは普通はすぐ死ぬっていう菌ではないけれど、でも結構ひどい症状が出て脱水なんかが危ないね、小さい子とかお年寄りとかだったら最悪死んじゃうこともあるからね」「でもちゃんと火を通せばサルモネラも死ぬから問題ないといえば問題ないんだけどね」「でも相互汚染(クロスコンタミネーション )というリスクがあるんだよね、まな板とかについちゃうからね」「あと手洗いね、その鶏肉を触った後にきちんと手を洗わなかったらいろんなものについちゃって危ないよね」「スーパーも回収したならまあ、大丈夫じゃない」「一応ブランドを公表して確認してもらったほうがいいかな」「関連商品の自主回収までしたんだ、もったいないな」「まあこれは生産者とスーパーで話し合って責任を取るべきだね」「消費者にはヘルプデスクがあるからそれをお知らせしなきゃ」云々です。そしてそれを文字に起こすと膨大な情報量になるわけです。そして誰もこんな大量の情報を求めてない、と思うわけですね。

で、結局ファイナルアンサー(に近いもの)である3文は「(1)皆さん、鶏肉のサルモネラ菌混入の件において、スーパーは既に該当商品の回収を終えており、仕入れ業者も関連製品の自主回収を済ませましたのでご心配には及びませんよ。(2)万一商品を既に購入していた場合でも、手洗いに気をつけ、鶏肉にしっかり火を通せば全てのバイ菌は死にますが、念のため該当商品は破棄してスーパーまでレシートをお持ちください。(3)この件で心配なことやご質問などある場合は〇〇省のヘルプデスク、XXX-XXX-XXXまでお電話ください。」です。そして、詳しいことを知りたい消費者のための情報として時系列にしっかり事情を書き、何をすべきか、どうやってこんな問題を将来解決すべきかなどの付加的情報を、公式webページなどに載せれば完璧と言えましょう。

この3文に到達するのは科学的な専門家にとってみたら、信じられないかもしれませんが、はっきり言って「痛み」以外の何ものでもないです。だって言いたいことの10%も言えてない。そして微妙に「正しいこと」を言えてない気すらする。だって手洗いと相互汚染に気をつけて、鶏肉に火を通すだけで、すごくリスクが低くなるから、べつに鶏肉を捨てなくてもいいんですよ。それを言えてない。回収されたものも全部廃棄されるわけですが、あああもったいない、火を通せばいいのに、と心が叫ぶ。でもね、また繰り返しますが、そんなのダラダラ言ったって、聞いてもらえないと意味がない。サルモネラに汚染されたから、製造業者がもう一度それに火を通して加工して売り直した、と聞いた消費者がなんと思うか。これはもはや科学的な安全の話ではなく、信用の問題にすり替わっているわけです。そこで、ああそうじゃない、科学のことを聞いてもらいたい、でも聞いてもらえないかもしれない、とバタバタと悶絶することになるんですね。「ことば」とは何か。コミュニケーションとは何か。まるで近いようですごく遠いこの二つのことを、時々こうやって哲学的に遠い目で見つめたくなるのです。

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