大人になるといろいろなことに気づくというか、物事を必要以上に複雑に考えるようになるので、いろいろなことが今まで考えなかった側面で面白く感じられることが多くなりました。最近考えたことで、食べ物が「美味しい」と思うことが突然面白いと思うようになったので共有してみようかと思って書いています。ちなみに上の写真はバンコクによくあるローカルな市場です。
まず、今私が好きな食べ物を聞かれると、間髪入れずに答えるのがバナナ(昭和初期)、チョコレート(子供)そして豆腐(まあこれは美味しいですよね)です。そしてさらにちょっと考えて「ああ、モツァレラチーズも信じられないくらい美味しいよね(イタリアかぶれ)」「そうだ、私パン全般が大好きだった(フランスのものもドイツのものも)」「でもそういえば最近気づいたけど私、海の異星人、たこが好き(私はずっと『たこ焼き』が好きなんだと勘違いしていたけれど、イタリアに住んでいた時に前菜のリストにInsalata di polipo e patate、つまりタコとじゃがいものサラダがあるとインスタントに幸せな気持ちになっていたことを思い起こし、さらに実は私は別にお好み焼きとか焼きそばとかはたこ焼きほど好きではないことを突然思い出し、そのことから私が好きなのは実はタコであることが判明したのです)」と好きなものを羅列し始めます。
だいぶ脱線してきましたが、バナナ好きとしてはタイに住んでいるということ自体がパラダイスです。見渡す限りバナナだらけ、という市場もあります。いろいろな種類のバナナがあって本当に幸せです。そこで本題にはいるのですが、時々、ものすごーく売れているバナナというものがあるわけです。それなのに、勇んで買ってみると「ん?これはおいしくないかも?」と思うことがあるのです。世界で一番好きな食べ物なのに、しかもみんなに人気なのに、美味しくないかも、と思うというのはどういうことでしょうか。そして逆に、美味しい、と思うということは一体どういうことなのでしょうか。
まじめな話をしてしまうと、私がアメリカの大学でFood Preparationのクラスを教えていた時に、もちろんたんぱく質の変性、とか油脂の種類、特に飽和と不飽和の違いによるパイの層の出来方の違い、とかそういった科学的なことをメインに教えるんですけれども、その中にSensory Evaluation(感覚評価)というトピックがあって、つまり食べ物の基本的な評価の仕方を科学的に学んでいただくわけです。教科書には試験に出ますよ!という勢いで、かなり決めつけた風に「食品というものは、だいたいの場合において、1)心理的要素、2)色彩と盛り付けを含めた見た目、3)温度の影響も受けた香り、4)のど越しも含めた口の中での食感、そして5)最終的に舌で感じる味覚、という順番で決まります」と書いてあります。まあ有り体に言えば味なんて最後だよ、ということが強調されているわけです。
たとえばここに(A)だしの素にお湯を注いだだけのものがあったとします。そしてその隣には(B)私が大きなお鍋に昆布でお水から出したお出しに花鰹をぱーっといれて濾しただし汁があったとします。そこで、どちらがおいしいですか、となるわけですね。そのときにまず1)が働くわけです。だって昆布と花鰹でちゃんと作ったお出汁だよ、Bが美味しくてあたりまえ、だとか、あるいはAのだしの素はちゃんと計算されて配合されたものだよ、そっちのほうが絶対万人受けするはず、とか、はたまた、これ人気の「か○や」のお出汁だよ、美味しくないわけがない、いろいろな心理バージョンが考えられます。そして次に2)どんなお鍋や器に入っているのか、そしてどんな盛り付けなのか、ですね。焦げがついたへこみもあるアルミのお鍋なのか、ルクルーゼのかわいらしいお鍋なのか。なんだか出しの色が黒っぽいよ、とかこれ無色透明?とかそういった見た目で美味しそうか美味しそうでないかを判断するということでしょう。そして3)冷えたお出汁には相当近づかないと香りはしないかもしれませんが、今出したばっかりのものだったら鰹のとっても良い香りがするでしょう。はたまた、これが日本人でない場合、鰹の香りっていったい良い香りと認識されるのでしょうか?魚が腐った匂いに思えたりして。そして4)飲んでみたときに変なつぶつぶ感があるよ、とかとろみがあるよ、とか熱すぎるよ、とかのど越しがいいね、とかそういう感想もあることでしょう。そして5)の味。ここでふと、あれ?味ってなによ、となります。
今半ば強引にいわゆる「うまみ成分」そのものといわれているお出汁を例に出したわけですけど、生理学的には舌に甘味、酸味、塩味、苦味のレセプターに加えてうま味レセプターがあるということが近年分かったことをご存じな方は多いと思います。日本語のUmamiがそのまま英語になっています。つまり「味がいい」という結論に至るためには甘かったり、酸っぱかったり、辛かったり、苦かったり、うまみがあったりする必要があるわけですね。でも全部ないといけないわけじゃないですね。甘いものは甘く、辛いものは辛く、というシンプルなわけでもないですね。甘みが増すということで、スイカに塩をかけて食べたことがある方もいるでしょう。生ハムとメロンのコンビネーションのお料理があったり、タイにも酸っぱくて辛くて美味しいトムヤムクンがあったりもします。いろいろいい感じに混ざったりしていると美味しいですね。白い粉であるMSGを振りかけると当然マジカルに出汁の美味しさが加わった状態になるので、ギョッとしてしまう人もいるかもしれません。加工食品ばっかりは嫌!という微妙な気持ちになる方もいるだろうし、科学的に考えて、まあ舌はこの成分を美味しいと感じることになっているから、お出汁作るの面倒だし、せっかくなら手軽に美味しくなったほうがいいよね、とMSGを受け入れる方もいるでしょう。何それ!と人工的なものを全て受け入れ難く思う人もいるでしょう(この世では、もはや人工的ではないものを見つけること自体大困難なわけですが)。
で、何が言いたいかというと、すっっごくつまらない結論で申し訳ないのですが、「美味しい」かどうか、ということを考える時に、単純に5)の「味覚」の部分での要素だけは科学で分析することはできても、結局1)2)3)4)の要素に結論が大きく左右されるため、特に1)の心理的要因に激しく左右されるため、科学で「美味しさ」を追求するには限界がある、ということなのです。
もう一つ面白かった例を出すと、私の大好きなブータンでは殺生がタブーなので、お肉料理なんかはないかと思いきや、すでに死んでしまった魂の抜け殻である肉は食べていいことになっているらしく、牛肉料理が出ることもあります。普通にステーキのように豪快に焼いてくれることもあるわけです。そう行ったステーキ屋さん(というよりはステーキもあるレストランですね)に、アメリカ人の専門家がブータン人の政府の人と一緒に「ここのお店は美味しいよ」と誘ってくださったので一度行ったことがあるわけです。そして全員小さめのリブステーキを頼んだんですが、それと格闘すること、一体どれだけの時間がかかったのか、本当に長かった。全然テーブルナイフでは切れない上に、やっとのことで切り取った一口サイズのステーキの一片が、私の口の中で絶望的に噛みきれない。肉汁もほぼ出ないし、まるでゴムのように私の口の中に一体どれだけ滞在する気ですか、となるくらい本当に硬いし繊維質なのです。そしてみんなを見ると、皆さんもまあまあ格闘中。そして長い時間が過ぎて見渡すと、私のお皿には90%ほど残っているのに、皆さんはすでに全部平らげているわけです。しかも私に、「あれ?こんなに美味しいのにそれいらないの?もらうよ!」というわけです。その時の私の心の声は、え!これ美味しいの?!それ本気?です。
いやあ本気なんですよ。そのアメリカ人とブータン人の皆様にとっては、この弾力のある水分のあまりない噛みごたえのある(というよりは噛みごたえしかない)お肉が、とても魅力的で美味しいわけです。そして私は遅まきながら気づきました。「美味しい」というのはつまり「自分定義」の美味しい「何か」に合っているか合っていないかに過ぎない、ということに。私が、ステーキは「ジューシーで柔らかくて、外側は熱いのに中はレアで口の中でとろけるような食感のもの」が「美味しいステーキ」である、と勝手に定義しているわけです。これは実は完全なる刷り込みです。私が今までの人生でどこかで耳にしたり目にしたり、食べたり食べなかったりした物の中で、私が勝手に定義したに過ぎないのです。それに比べて、そこにいたアメリカ人やブータン人の皆さんの中では、「美味しいステーキ」の定義は「野性味のある噛みごたえのある大きな分厚いステーキ」というものなのでしょう。それだったらぴったりくる。
だって私の好物であることがはっきり分かったタコさんが口の中でとろけたりしたらかなり微妙です。タコならではの食感があってこそ美味しいタコです。たこ焼きの中で脂身のようになってグズグズになっているタコなんて魅力ゼロじゃないですか。で、伏線回収しますが、私が美味しくないかも?と思うバナナは、単純に私が「美味しいバナナ」と定義しているものに合っていないだけで、それが超絶美味しいと思う人はたくさんいらっしゃるというわけなんですね。いやあ、美味しい、と思うことは自分の感覚的なことだと思っていたのに、完全にマーケティングと幼少時からの刷り込みに左右されていたなんて、頭では分かっていても、まぁまぁショッキングで面白い発見なのでした。もう少し頭を柔らかく、オープンに美味しいものを追求していきたいですね。