歴史と常識

最近思うことなのですが、海外に住んでいるということが原因で、物事を不思議なほどまじめに考えることが多くなったなぁと思います。もしかしたら不必要なほどにいろいろ細々としたことを真面目に考えていることがあります。
実はそれは、私に身近な国際的な交流があるという意味で、背筋がおもわずピンとしてしまうということが一番大きな理由かなと思ってしまいます。ふとした瞬間でも、いろいろといい加減に考えてられない、と思ってしまう。別に私がはりきって日本国を背負っているわけではないので、そんなに真面目になることもないのかもしれませんが、例えば、今思い浮かべるだけでも、私には、中国人、韓国人、タイ人、インドネシア人、アメリカ人、メキシコ人、カナダ人、ノルウェー人、ドイツ人、デンマーク人、などなど、それぞれ少なくともひとり以上と、通常の友人関係(会う必要はなくても会うという関係)だったことがあり、一緒にただ単に時を楽しく過ごすということをしたことが、その「何でも真面目に考えてしまう」という私の行動に影響を与えたと思います。


というのも、授業などで「会うべくして会う」状態だと、常に緊張しているか、あるいは微妙な一線があってそこまで特に意識しなくてもデリケートな会話(歴史とか政治とか宗教とか)になることはないのに、友達として単純に一緒に時を過ごしていると、ふとした状況(単純に食事だったり、会話をするときのお互いの距離だったり)がものすごく違ったりして、自分の日本人性とでもいいましょうか、そういうものを強く意識するか、あるいは相手の異国人的な言動にちょっと驚いたりするようなことがあるからです。
何かで読んだ哲学の本に、「世の中で唯一不変であることは、物事はかわり続ける、という真実だ」と書いてありましたが(つまり諸行無常)、そういう国際的な違いを実感するたびに、それを思い出してウンウンと納得します。「常識」というのはつまり小さな小さな自分ワールドだけのものだなぁと思うのです。
これを書くとウチワ話なので笑ってしまう友達もいるかもしれませんが、以前、知り合いの、とにかくいろいろな男の人とおつきあいしたことがある女の子(つまりモテるということでしょうね)に、「ねぇ、(理想の)タイプとかってあるの?」と誰かが好奇心いっぱいで聞いていて(だってあまりにも違うタイプの男の人とたくさんつきあうから興味津々だったんでしょうね)、それに対して、「えー、やっぱりアタシの理想は『常識のある人』かなー」と彼女が言っていて、おおお!とみんなの中で盛り上がったことがあるのですが(なぜ盛り上がったかはご想像におまかせします)、それはつまり、「彼女なりの常識」がある、ということ、つまり、彼女とものの基本的な考え方が同じかあるいは似ている(許容範囲で)という人がいいのだろうな、と思って、それでなるほど!とすごく思ったんですね。なんかくだらない前置きですみません。
つまりどういうことかというと、歴史の話なんです。アジアの友達とお話していると、小さなことで歴史の話になります。別に何が何年におこったとか、そういういわゆる学校で教わる歴史ではなくて、ストーリーとしての歴史です。英語を勉強していたインドネシアの友達は、明るい感じで、「ああー残念、日本がイギリスに負けてたら今頃あたし英語ペラペラなのになー」と言ったり(彼女はインドネシアは日本のおかげでいい国になった、とも言ってましたが)、韓国人の友達が急に真顔で「君が豊臣秀吉のことを英雄だと思っているなら僕は君とは友人関係を築けないと思う」と言ってきたり、こっちは一緒に楽しくおいしい夕ご飯を食べようと思っただけなのに、背筋をのばして冷や汗をかいているわけです。
私は典型的なジャパニーズなので、「いやぁ、そんなこといわれても」と弱腰になってしまうわけなんですが、これってやっぱり私が勉強不足なのが原因なのかしら、とものすごく反省する反面、反動で、なんか急に人のせいにしたくなっちゃうんですよねぇ。学校で教わる歴史って、やっぱり「いいくにつくろうかまくらばくふ」とかやってる場合じゃないんじゃない?と思ってしまう。年号はたしかに大事かもしれないけれど、やっぱり大まかなストーリーラインをエッセイ風に答えさせる歴史のテストのほうがよかったと強く思ってしまうんです。なぜXX戦争が起こったのか、とかいっても、普通に考えてもどんな戦争でも10コ以上は大きな理由があるでしょう。そういうのを知りたかった。いや、そういうのは自分で学ぶべきなのかもしれませんけどね。学校はあくまでもアウトラインを教えるということかもしれません。それはわかってるんですけどね。
教科書問題で中国や韓国からいろいろ言われてますが、あれは内政干渉ではないんですかねぇ。誰かしっかり歴史を知っている人がいるというのが確実であれば、そりゃあ日本の教科書が間違っていればただす必要はあるだろうけれど、誰かがどこかでウソをついたか、ごまかしたかで、もはや何もかもがあやふやになっている状態で、今更議論なしにどっちかに統制することは不可能じゃないかと思うんですよねぇ。しかも、「もうどっちでもいいじゃん」というふうにするわけにはいかない問題だし。歴史研究者が実際どっちが本当だったかを研究するのは大事でしょうけど、実際問題、今すぐはわからない訳だし、教科書に「こういう解釈とこういう解釈があってどちらが真実かは未だわからない」とか書くわけにはいかないのかしら、と今日Aさんにふと言ってみたら、「いや、それはあなたがサイエンティストだからそれがいいと思っちゃうんだよ」とあっさり却下されました。歴史の教科書は事実の羅列が理想ということらしい(でも、その「事実」が揺らいでるのに!)。
でも、私がサイエンティストだからかどうかはおいておいて、私は確かに、とにかく断言するのはあまり好きではありません。ここでやっと話が一巡するんですが、それはもしかしたら、私が研究してきたことに関係なく、実は、私が海外に住んで、やだ、私の常識が全く通じないところがいっぱいある!!と、本当にものすごく些細なことから大きなことまで、多分、「全て」の事柄において、思ったことがあるからだと思うんです。
なにも、海外在住しなくてもこんな単純なこと気づく人はいっぱいいると思うんですが、少なくとも私にとっては、ここで、実感としてそれに気づいたことが、私の精神を真面目にしたと思います。高校生のときの自分みたいに「まあいいじゃん」と、これからは思わないようにしよう、と心に決めたんです。だって、国がちがうだけじゃなくて、単純に言葉が違うだけじゃなくて、そのひとつひとつの同じだと思っていた単語の解釈が小さなところでも大きなところでも、逐一、違うんですよ。笑う、という普通の行動が失礼になる時だってある。アイコンタクトをしなかったらウソをついていると思われることもある。根本的な何かが全て違う国の人だっている。金銭感覚も違う。プライオリティーもちがう。何もかもが違う、と言ったって過言じゃないんです。
それなのに、歴史の解釈が世界中で一致するわけがないじゃないですか。歴史教科書問題って不毛だなぁと真面目に思う理由です。
でも情けないのは、こんなに熱く、真面目にこの問題を考えるのに、「じゃあどうしたらいいか」に答えを出せないということですね。そしていつも思うのは、「世の中役割分担なんだから、私は私ができることをやろう」ということです。つまり、10年以上も一生懸命せっせとやっている栄養学。それにさらにさらに専門性を磨いて加えてそれを社会に還元していくことで、その部分での問題解決には近づくはず。全然違うトピックだし、全く関係がないみたいにみえるけれど、ものすごく大きなひとつの絵としてみると、私も何らかの社会問題の解決に力を貸していることになるはず、と一生懸命信じてがんばるしかないのです。

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