イグノランス

最近考えることで、私が特になんとなく引っかかってしまうことのひとつに、”Ignorance”の問題があります。Ignoranceは日本語では、新英和中辞典(研究社)によると、簡単に、「無知、無学、~~を知らないこと、不案内」などと訳されていますが、英英辞典をひくと、”lack of knowledge about a thing in a being capable of knowing”ということで、つまり、日本語だと、意訳ですが、「知ろうとしようとしない(知ろうとすればできるのに)がためにある事に対する知識がないこと」とでもいいましょうか。もっと簡単に言うと、「無知の知を自覚しようとすらしていないこと」と強く言うことができると思います。知ることはできるはずなのに、知ろうとしない図々しさ。


このイグノランスの問題は個人レベルでは完全解決はほぼ不可能という、わりと絶望的な問題でもあると思います。なぜなら、たとえば、仮に私が知らずに誰かを何かで傷つけていたとして、それで私が、そのコトが誰かを傷つけるということを知らない場合、知ろうとしない(知ろうとすればできるのに)場合、その相手、「これこれこういう理由で私は傷ついた」と優しく教えてくださらない限り、私は一生そのことに気づくことはない(気づこうとしない)のです。それもひとつの大きなイグノランス。つまり、簡単に言うと、物事、あるいは人を多面的に見る事をしようと努力しない場合、物事に多面性があるということに気づこうとしない場合、イグノランスの問題が現れるといえます。
なんとも摩訶不思議なことに、このイグノランスの問題、個人間では、日本では特にあまり出会うことはありません。私なりの分析だと、日本人には「謙虚さの美」というものがあると思うんです。イグノランスの問題は、私は人間の謙虚さで補えると思っているのです。いわゆる、「察し合い」とでもいうのでしょうか。「私は(ある特定の物事を)こう思っているけれど、もしかしたら他の人は違う面から見ているかもしれない」とか「私は(ある特定の人が行った)ある事を、こう評価している(悪くも良くも)けれど、(その特定の人は)そのある事を、違う風に評価して行っているかもしれない」などの心の余裕というか、謙虚な気持ちが、すべての物事にそれぞれ必ずたくさんある、多面的な部分をぼんやりではあるかもしれませんが、含んだ意見を作り上げると思うんですね。
私が良く触れる機会のあるアメリカ人には日本人に比べると、個人間の問題に限ってですが、比較的多くイグノランスの問題があると感じています。文化的な違いもあるでしょうし、もしかしたら何か別の決定的な違いがあるのでしょうが、言うなれば、「うっかり差別」のような発言を耳にする事がありますね。例を出すと長くなってしまうので省略しますが、そういうとき、私は本来の意味において、「優しく」なれないのです。その人に、「それはイグノランスだよ」と教えようはしない、という意味です。つまり、もし私がそれはイグノランスだと注意することによってその人の意識を多少なりとも喚起することがあれば、それは優しさだと思うんですね。一時的にはその人は私を嫌うかもしれないし、もしかしたら一生嫌な気持ちがするのかもしれませんが、長い目で見ると、喚起されなきゃ気付かないのがイグノランスなので、私の中ではそれを指摘するのは「優しさ」なのです。でも私はそこで、「ああ、だめだ」とちょっとタメ息をついて、その部分になるべく触れないように会話をするという方向に走ってしまいます。それはそれで私のイグノランスかもしれませんね。自分は、自分のイグノランスは指摘してほしいと願っているにもかかわらず人にはしないのだから。
でも、これは私の勝手な主観ですが、この日本人とアメリカ人の比較、「個人間の問題に限っていえば」日本人の方がイグノランスの問題は少ないだけで、実は問題が大きくなると、逆になるなぁと思ってしまいます。つまり、社会問題、環境問題、経済問題、政治問題、などそういった大きな問題。私の知るアメリカ人は大学で出会った人ばかりなのでもしかしたら特殊なグループの人々かもしれませんが、本当に驚くほど、そういった問題に謙虚です。謙虚でかつ、知りたがる。知らないことをかなりの恥だと感じていて、知ろうとしていなかった自分をためらいなく、人前で恥じてみせます。逆に、日本人は、これまた私が出会った人ばかりなので、必ずしも「日本人代表」ではないのかもしれませんが、そういった比較的大きな問題のことを「知ったかぶろうとする」人、「そんなの知らないし知りたくもない」とあっけらかんと言う人、「まあムキにならずに」と笑ってすませる人、「頭いい人にまかせとけばいいよ」と一見謙虚な実は図々しい人、などに分かれますね。もちろんその全く逆で、熱くなりすぎなほど熱くなる人もいますね。でもこれはアメリカ人にも一部いますのでこれは例外人口だと言えると思います。私個人としては、どちらかというと前出の「一見謙虚で実は一番図々しい」というタイプかもしれません。ああ、私にはわからない、決めることができない、誰か決めて!という一番卑怯なタイプでしょうか。
実は、どうしていきなりこんな大きなことをなんだかんだと書いているかというと、日本に一時帰国中に、熊本県立大学を訪問させていただいたときに、T教授にいろいろと、魚介類の安全性などについてお伺いしていたのですが、このイグノランスの問題を改めて考えさせられることがあったんですね。書くと陳腐になってきてホントにイヤなんですが、つまり環境ホルモン問題です。学界でも一般的にも、環境ホルモンはホットな話題だし、この話題なしには食の安全性について語ることはできないことで、ちょっと基本的な知識の整理をするために、先生に資料をいただき、東京までの飛行機の中でせっせと読んだわけです。
私は食品安全の分野の研究者なので、環境ホルモンについて基本的な情報はだいたい把握していたつもりでしたが、新しい数字、各国の比較など、とても勉強になることばかりでした。そして是非是非、ここに書き留めておいて、そして少なくともここに来て下さる方に見ていただけたらそれでいいかな、なんて思ってました。別に「見ないとだめ!」という場ではないし、見たい人、読みたい人が読むというウェブという媒体では最適の話題かな、と思ったんですが、ふと、ここにダラダラいきなり環境ホルモン問題を書いても、読み飛ばされる可能性の方が大きい、と思って、どうやったら読み飛ばされないかなーと考えているうちにこの「イグノランス」の問題にぶつかったわけです。
今度ゆっくりその環境ホルモンについて、私が知った新しい情報についてはここに書こうと思ってます。そのときに、ぜひとも、イグノラントな反応ではなくてしっかりと読んでくださる人がひとりでも多いといいなーと思って、前置き風に書いてみました。
そういえば映画、”Fahrenheit 9/11″でも、息子を戦争で亡くした母親に、お説教しようとする頭のよさそうな女性が出てきて、その女性に母親は、”I, lost, my, son. It’s MY son.”と涙を精いっぱいこらえて力強く言い放ったあと、その女性が立ち去ってから、”So ignorant.”とつぶやいてました。現在戦争という非日常が日常化しているアメリカでは、この戦争問題に限ってはアメリカ国民総イグノラント化しているのかもしれませんね。そしてその国でこうしてのんきに何も知らず(知ろうとせず)にぼけーっとしてる私も。じゃあ少なくとも、「私は知らないんだ」と自覚したり恥じたり、教えてもらえそうなときは一生懸命教えてもらったり、本を読んだり、いろいろと努力する方向で頑張ればいいのかしら。難しいです。
追記:これは「一体全体、何がどういうふうに問題なのか:環境ホルモン」に続きます。

2 Replies to “イグノランス”

  1. お久しぶりです。
    日本へ帰っていたり、仕事が忙しかったり、いろいろ時間がなくて見せてもらってはいたもののコメントを書く時間が有りませんでした。気力も伴わない状況が続いています。仕事が忙しすぎるのは考え物です。 日記?いつも「うんうん」とか「そうなんだ~」とか頷きながら読ませてもらっています。ちょっと質問なのですが、シアトルのPike Market?でしたか、あの市場にあるお茶屋さんの名前なんです。そんなんでわかりますかねえ?そこで以前かったスパイスティーって感じの名前のお茶が好きなんです。ビンに詰めたらかわいいんですよ。見て楽しくて、飲んでおいしいというのが感想です。話しが長くなりましたが、イグノランスのこと読みました。次のを楽しみにしています!

  2. Shizukaさん:日本に帰ってらしたんですね?暑かったことでしょう。いつも読んでいただいているなんて嬉しいです。Pike Place Marketのお茶やさんですかー。私はちょっと分からないかもしれません。私が良く行くお茶屋さんは、SeattleのInternational Districtにある、Seattle’s Best Tea Co. ltd.で、以前このウェブにも遊びにきてくださっていたRさんという方のウェブで知り、良く買っています。スパイスティーですか、今度シアトルに行ったときに買ってみますね!お茶大好きなのでそういう情報嬉しいです。環境ホルモンの話、今度一生懸命まとめてみる予定です。

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