なんだか詩的なタイトルにしてしまいましたが、これから私が書きたいのはつまり、「かけ違えたボタンはまた最初から全部外して、かけなおせばいい」というようなことです。「とりかえしのつかないこと」というのは、主観的な感想(自分がとりかえしがつかないと思うからとりあえしがつかないだけ)であって、そんなのないと思えばないのだと思うのです。って、実は私が、ある事を「とりかえしがつかない」とは思いたくなくて、なんとかして改善したいと強く願っているからなんですけれどね。自分に言い聞かせているだけです。
なんでこんなことを夜中にせっせと書いているかというと、日本に帰国中に適当に選んで買った椎名誠氏の「春画」という短編集を読んだからなんです。この短編集はタイトルこそ色っぽいものの、中身は椎名氏の私小説です。私小説は完全ノンフィクションではないですから、いろいろと脚色もあるのでしょうし、時には大きな作りごともあるのでしょうが、基本的には椎名氏そのものが中心となっている小説です。この短編集には7編入っていますが、今回日本に帰国していて実家にいたある夜に、そのうちのふたつめの「家族」というのを読んでいるうちに、なんとも落ち着かず、不安になり、不快とすら言えるような、何かが喉に詰まったような、それでいて目頭が熱いような、どうしようもない気持ちになってしまいました。その「家族」という短編には椎名氏がアメリカに住んでいる長女と長男に夫婦そろって会いに行くという、一見普通のお話が描かれているのですが、とにかく久しぶりに4人が揃うことになるので椎名氏にとっては感慨深い旅行なわけですね。そして行きの飛行機の中で思ったこととして、こう書いてあります。
息子が小学生時代のことを題材に小説を書き、そのことによって私と息子の間にはなんとはなしの大きな溝ができてしまったようで、気後れがいくらかあった。
それまでは、世間で言うところの友達親子のような気安さで私は子供たちとなんでも話をしていた。
これはつまり椎名氏が書いた、「岳物語」と「続岳物語」のことですね。小説家は私小説を書いてしまうとそういうことが起こるんだな、と突然なんとなくあの野性的で素敵な椎名氏がなんだか頼りない普通のお父さんな気がしてきて何かがぎゅっとしてしまうのです。そして途中、自分が白黒テレビでみていたアメリカの一家5人のテレビドラマのことを思い出し、それを見ていた自身の家族のことを思い出しながらこう書きます。
これは実はいわゆる伏線です(多分)。それにしても現代ではこういうふうに思ったことがない子供っていうのを探すのが難しいくらいだと思うんですがどうでしょう。これは、浅はかな、幼稚で被害者ぶった考え、というのが妥当でしょう。でもまあ、椎名氏が心配した息子との溝は実は杞憂に過ぎず、普通にまた友達親子のように接することができるので何の問題もないので大丈夫だったんですが、私が泣いてしまったのは時々出てくる「妻」の描写。
「けっこう中はトンネルがあったり、広場があったりして、とっても規模が大きいのよ」
私のささやかな心配をよそに、彼女は元気のいい声でそう言った。
この「妻」の描写でどうして涙を誘われるかというと、それはずっと昔に読んだ、同じく椎名誠氏の「パタゴニア」を思い出すからです。これは確か、私が中学1年生のときに読んだと思うので、1980年代の本。その本はパタゴニアで過ごした椎名氏のドキュメンタリーが綴られているのですが、なんとも奇妙なことに、冒頭は「トランクの中」という章で始まっています。そしてパタゴニアには何の関係もなく、脈絡もなく、
食卓に座って向かいあっても、頼んだことはいつものようにやってくれるのだが、自分からはけっして何も喋ろうとはしなかった。
「どうしたんだ?」
と、ぼくはすこし慌てて聞いた。「どうしたんだ」と強く詰問調子で言われて妻が一瞬身を固くしたのがわかった。
「いったい何がどうしたんだ?!」
出発前にどっとおしよせてきた雑多な「やっておくべき仕事」に振り回されて、常に気持ちの内側をイラだたせていたぼくは思わず怒鳴ってしまった。
妻はそこで初めて僕の顔を見つめ、それから黙って涙だけ流した。
とあるのです。「妻」はつまり言うところの「ノイローゼ」気味になっていたんですが、それは椎名氏が忙しすぎて早朝だろうが夜中だろうがガンガン電話がかかってくるのを全部「妻」が対処しなければならず、「頭の中で電話の音がする」ようになってしまったのでした。そして神経科を受診し、そこで氏は3日後に控えているパタゴニアの旅行をどうするべきか先生に相談し、「いっていらっしゃい」とあっさりいわれ、行くことにしたものの、そのパタゴニア旅行中は空港に行くためにタクシーに乗るときに自転車で出かけて行った「妻」の後ろ姿がイヤな風に何度も何度も目の前に浮かび、心配で心配でたまらない、というそういう精神状態だったわけです。
そして今回のこの「家族」という私小説では、この椎名夫婦は、こんな夫婦の危機もいつのまにか乗り越え、ふたりのアメリカに住む成人した子供達に知らない土地を案内してもらうわけです。そして最後の夜、アウトドアにテーブルセッティングされたギリシャ料理のレストランで乾杯代わりに、「どうも今回の旅は君たちにすっかり世話になって、父としてはとても嬉しかったよ」といいます。
これに涙しない留学生はいないんじゃないかと思いますね。なんで涙するかというと、子供達の立場から見て、自分がいかに、言葉は悪いのですが(良い意味で)、「情けない」かを実感するからじゃないでしょうか。親のスネをかじって「留学」をさせていただいて、そして両親には航空チケットを送ってあげるお金もないのにはるばると訪ねてきてもらって、その罪償いというわけでもないでしょうが、とにかくいろいろなところを精いっぱい案内し、そしてお別れの夜に「嬉しかった」とか「誇りに思う(日本人だからこんなセリフは言わないでしょうが、少なくともそういった含みはあるはず)」というようなことを両親に言ってもらってしまうと、それはもう、ものすごく、情けなく、嬉しく、とにかくどうにかしてこの人達を喜ばせるために、さらにさらに頑張らなきゃと、固く我が心に言い聞かせるから、涙がこみあげるのです。
そして椎名氏がトイレにたってテーブルに帰ってくると、「妻」が静かに娘と息子にお話をしています。
娘が私の顔を見つめ、それからまた妻のほうに向き直った。
「私もお父さんも、若い頃は君たちのように外国に出て、もっと広い世界で自分の可能性を試したいという気持ちが当然あった。でもいろんな事情で、主として経済的な面でそれは遠い夢でしかなかったけれどね」
低い声で話す妻の声は淀みがなかった。
「その夢はいま君たちにこうして継がれているわけだから、それは私たちも嬉しいことなんですよ」
(中略)
「そうして所詮、成り上がりにすぎないけれども、今私たちのところは、昔よりは生活に余裕はある。だから君たちがこうしてまだ暫くこの国で勉強していくことの資金的な援助はできる。今度の旅で君たちは私たちの負担しているお金のことについてそれぞれがさまざまに心配している、ということがよく分かったけれど、でもそのことは心配しなくていい。そんなことよりも、今はこの折角の異文化のなかでの生活を、君たちは精一杯自分のものにしていったらいい。将来なにか大きな仕事を目指して頑張るなんて必要はまったくない。それよりも、今君たちが考えるのは、自分の幸せということを、そろそろ本格的にそれぞれ追求していくことだ、ということなんですよ」
なんだかここで説明すると陳腐になってしまうと思うけれど仕方ないので書きますが、これは伏線だった前出の部分を塗り替える部分だと私は勝手に解釈しています。この「妻」の言葉は、99%の留学生、あるいは仕送りをしてもらっている大学生や大学院生にとって「痛い」部分なんだと思います。なんとかして逃げたい痛い部分。そしてその「痛さ」は経済的な、金銭的な面だけのことではなく、家族から受けた精神的な大きな大きなサポートにまで及びます。家族にどんなに心配をかけたか、自分の将来が見えなかった学生時代、家族は、両親は、どんな気持ちだったか。でも家族だからこそ、その甘えすら見逃すフリをして「妻」のようにこういうふうに言ってもらえるのでしょう。自分が恩知らずだとは思いたくない、逃げてきたけれどこれからは真正面から向かわなければならない、とあるとき、ちゃんと育ってきた子供はふと考えはじめると思うんですね。
私は口から生まれてきたようなものだし、三つ子の魂だかなんだか、意地っ張りで負けず嫌いでトゲのある心を持っているところがあるので、そういうふうに両親や家族のことを考えはじめるのが、一般に比べて激しく遅かった上に、考えていても行動が伴わないという時期がずっとあったと思います。それでなんだかボタンを掛け違えてきてしまったような気分になっているんですね。しばらくこれはとりかえしがつかないんじゃないかと思っていたんですが、そんなはずはない、もういちど外して頑張ってかけなおさなきゃ、と思っている最中なのです。つまり、お父さん、お母さん、お姉さん、ごめんね、そして本当にありがとう、ということなのです。