このサイトを読んでくださっている方にはよく分かると思いますが、私の日本語はカタカナだらけです。恥ずかしいほどに。でも、私は日常から、常に、アメリカカブれしたくない、と思っています。カブれる、というのはつまり私の中の定義では「甘んじる」というのと同義です。こちらで長く生活していると、英語力とはまったく関係ない部分で、日本語力が落ちていきます。つまり、「日本語を忘れるくらいに英語が上達する」ということではなく、「英語が上達するかどうかは置いておいて、日本語を忘れていく」ということが起こるのです。でも現実は気持ちとは相容れず、結局わたしはカブれてきてしまっているのでしょう。
だって毎日、日本人と話す時以外、つまり日常的な動作、買い物だったり仕事だったり電話だったり事務処理だったり食事だったり、テレビだったり、全てのことは英語でやりますよね。だから、そういう、いわゆる公的な場面での日本語は必要ないわけです。ホテルを予約するときだって、日本語でホテルを予約する言い回しや方法(いや、そんな難しいものではないですけど、いい例が思い付かないだけで、わりと複雑な方法がいることも、日本では何かしらありますよね、病院の受付なり、なんなり。)に出会うことなく、忘れてしまう。
それが私の中では「カブれる」ということなんです。日本語を使わなくていい状況に甘んじている。これじゃだめですね。立派なバイリンガルには到底なれない。私は日本で生まれ、23年間きっちりと日本で育ったので日本人としてのアイデンティティ(これって日本語ですよね?)は絶対に失いたくないです。反面、英語の知識は、どちらかというとプラスアルファという捉え方です。上達すればするほどもちろん満足するだろうけれど、アイデンティティを確立する要素にはなりえない言語だという認識。
私がカタカナ英語を交えて文章を書くのは、夏目漱石がそうやっていたレベルとはお話が違うのです。彼はそうやろうとしてやっていて、わたしはそれしかできないからやっている。正直情けないなぁと思います。私は別にこの文章を書くのに下書きもしないし、ネタすら考えないし、推敲すらしないし、そのとき湧き出てくる言葉をつらつらと書き留めているだけなのでこんなこと真剣に考えることもないんでしょうけど、まぁふと思ったので書いてみました。実はあんまり意味はないです。これからもカブれた文章を書いていくことでしょう。
こんにちは。ゆかです。お元気ですか?一年半ぶりにアメリカから帰国してきました。もう、一週間たつけれど、逆カルチャーショックで、最初はこっちの生活に慣れるのがとても大変でした。そう思うと、今までの一年半の生活がアメリカに対応するための生活スタイルだったんだなと身にしみて思ったりもします。英語も、かなり上達したかな?でも日本に帰ってきて、しゃべる機会がないと、ホント簡単に忘れてしまいそうです。アメリカナイズもされました。というか、されなければ、向こうでは生きていけない部分もあるんだけど、こっちに帰ってくると、中途半端な形で出るのがイタイです。んー二つの国にはさまれて、色々複雑な気持ちでいっぱいになっているといったところです。
ゆかちゃん:お帰りなさい。こちらは元気ですよー。いつもゆかちゃんのお姉さんのEちゃんにお世話になってます。1年半だと、ちょうど最高に中途半端にナイズドされる時期よねぇ、と思ってウンウンと納得したよ。しかもゆかちゃんくらいの年齢だと特にそうかも、と思いました。でもね、これは私の個人的な感想だけど、国際結婚をする場合だけを例外として、日本人はやっぱり日本人らしくありたいと願うのが、なんとなく自然な流れじゃないかなーと、今は思います。逆カルチャーショックも楽しんで頑張ってね。それにしても2年前の私のエントリーにコメントしてくれるなんてしぶいね!