大統領の薄笑い顔

今日は久しぶりの大統領のプレスカンファレンスでしたけど、朝からじっくりと見入ってしまいました。
これはジョークですけど、なんて前置きしてから書きますけど、だいたい、ブッシュ大統領の言うことすべてがなんかウソっぽく感じるんですよね。イラクの件にしても、ゲイの結婚にしても、なんかすべてが茶番な感じ。そしてどうしてこういう感覚になってしまうんだろうって不思議に思っていたんです。だってクリントン時代はこんなふうには感じず、まぁあんまりトピックのことはよく分からないのはいつもなんですけど、「スピーチうまいなぁ」とか「納得しちゃうなぁ」とかわりとフムフムと聞いていたと思うのに、今は「ほー、なーんかウソっぽい」とか「へぇぇ、ホントかなぁ?」とかそういう感じに思えるのです。
そしてそれがどうしてなのか、今分かりました!それは、GWブッシュJrの顔でした。顔がね、というより口元がね、微妙に薄笑いかぶってるような顔なんですよね。それで全部バカにしてるような、あんまりまじめに考えてないようなふうに見えてしまうのでした。顔って大事ですねぇ。
「あたしのほかにもブッシュ大統領は薄笑いかぶったような顔だ、と思っているひとはいるはず」と思い、グーグルで「ブッシュ」と「薄笑い」のキーワードで(すごいキーワードえすが)探してみたら、何故かこの方のエッセイにたどり着き、例によって例のごとく、その薄笑いについてはどうでもよくなり、7/25のところに書いてある、

(ここから引用)「語り継ぐべきもの−世代の連続と不連続−」と題した講演は、ことの成り行きを反映し、理念的(論理的)に生きるとはどういうことか、を訴えていく内容となった。私は、日本語特有の語法である「なかった」という表現に着目し、およそ次のようなことを話した。例えば、親の言いつけで、探しものに行った子どもは、「なかったよ」という言葉をしばしば使う。あたかも、「なかった」のはもののせいであるかのように。だが、英語的な文脈に直せば、「探しに行ったが私は見つけることができなかった」となる。その結果として、「探し下手」の私が悪いか、「そこにある」と勘違いしたお父さんが悪い、の二通りの責任が発生する。日本語は、このように責任主体が明確でない言語であるので、常に責任を明らかにするよう意識して言葉を使うことで、理念的な立場を築くことができる、というようなことを学生に語りかけたのだった。この講演に照らしてみれば、小泉首相の、大量破壊兵器があった、なかったの発言も、徹底的に責任主体を欠いた日本語の典型と理解できる。(引用おわり)

という文章に深く頷くことになりました。というのも、なんだか唐突ですが、私が日本の短大にいっていたとき、3年生はみんなだいたい1年をとおして学外実習に行くんですけど、とある保健所実習のとき、もうすぐお母さんになるひとを対象に、離乳食の作り方実習をしたんですね。そのとき大きなお皿に盛り付けたんですけど、それを洗うときに同じ実習グループだった女の子が、そのお皿を落としてしまってお皿が割れたんです。そしてすぐにスーパーバイザーだったその保健所の栄養士さんに、報告に行くことになったんですが、その友達、「S先生、お皿が割れました」と報告したんですね。あたしはそれを聞いてすっっごく違和感があって、バスで一人暮らしの家に帰る間中、「なんで違和感があるんだろう?」と悩んでいて、結局寝る前くらいに「!!」とこの引用させていただいた文章を書いた方と同じようなことを思い付いたんです。報告の仕方が、「お皿を割ってしまいました」じゃなかったから、違和感があったんですね。多分。
こういうことを考えれば考えるほど、語学っていうのは、単純に言葉を辞書に照らし合わせることではないっていう、もはや分かりきった事実に実感を持って同意することができます。文化とか、人種の違いとかなにもかもを反映したものが言葉だったりしますよね。言葉ってすごく大事だと思います。目は口ほどに某、ということわざ、あれは意外に日本だけで通用するものかもしれないですよね。いや、そんなこともないか。
っていうか薄笑いはどこに行ったんでしょうねぇほんとに。

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