The Great Gatsby

20030429thegreatgatsby.jpgThe Great Gatsby (F. Scott Fitzgerald):昨日、ドアにガタン!と音がしたので驚いて出てみると、本が届いてました。とりあえず3冊。で、今日から読みはじめたのがこれです。かなりのクラシックです。以前に日本語で読んでいてダメだ〜と途中で話も分からなくなったけど、原文で読んでみたらおもしろいかも、という希望的観測で買ってみました。村上春樹氏の本に出て来たコが読んでいたのでなんだかそういうイメージで。これはなんと今から73年前、1925年が初版らしいですよ。それからいろいろと文章を正したりして1975年に今の形になったとか。アメリカでは学校で英語(国語ですね)のテキストになってたりするらしいです。つまりそれくらい美しい英語ってことでしょうか。

ちらっと読んでみたい方はアマゾンのページで”Look inside this book”というのをクリックすると、途中までですが結構読めます。イントロはつまらないのでExcerpt 1というのから読むのをオススメします。そこを読むだけでちょっと分かるんですが、最初からガツンときますよ。続きはさらにしたの方に書いておきますので、これから情報抜きで読もうというひとは続きは読まないでくださいね。邦題は2種類あるらしく、普通に「偉大なギャツビー」というのと、「華麗なるギャッツビ」というのがあります。ロバートレッドフォードの映画化作品のタイトルが「華麗なるギャッツビー」だったのでそれで覚えている方も多いのではないでしょうか。[ 洋書籍 | 日本語訳書 ]

最初にガツンとくるところ、引用しますね。

In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I’ve been turning over in my mind ever since. “Whenever you feel like criticizing anyone,” he told me, “just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.” He didn’t say any more but we’ve always been unusually communicative in a reserved way and I understood that he meant a great deal more than that. In consequence I’m inclined to reserve all judgements, a habit that has opened up many curious natures to me and also made me the victim of not a few veteran bores.

この、お父さんがいった教えって、私ついほんの最近、どこかで日本語で、目にしたんですけど、どこだったかなぁ。誰かの日記だったか、ウェブサイトだったか、ちょっと思い出せないのが辛い。まぁこの教えも襟を正すという意味で私には十分意味深いんですが、私が好きだったのは

we’ve always been unusually communicative in a reserved way

ってとこですね。私はこの状態に一緒になれる人をひたすら人生で探し続けてきたのですごく、なんというか、うらやましい気持ちになります。これはただただひたすらに、自分のせいなんですが、こういうひとは、家族以外で見つけるのは、ほぼ不可能に等しいですね。家族でもむつかしいですけど。ああ、もちろん、そのa reserved wayにもよりますけれども。
私は自分の日記を、ほぼ自分の為に書いている(95%はそう、のこり5%は家族や友達に近況を伝えるため)ので、この私の気持ちを、50年後くらいに読み返せるときがきたら、是非とももういちど考えたいことですね。私にはそういうふうに前向きな気持ちで言える人がいるか。

そのことは、まぁこの文章ではメインではなくて、付加的なものなんですが、ここでメインである「人をクリティサイズすること」というのは辞書を使って日本語で訳すると、「人を非難する、酷評する、人のあら探しをする、評論する、こと」というふうになってしまいますが、ここは微妙に私の中で違うんですね。こういうのって英語や日本語に限らず、方言やなにもかもを含めて、完全に同じ意味に言い換えることは不可能なので、結局辞書にのっている意味が一番近く、人に分かりやすい、ということになるのは分かってるんですが、トライさせてください。

「人をどちらかというと良くない意味で表現し、決めつける」

という感じですね。あーーー笑えるほど分かりづらいですね!わたしが「どちらかというと」というのを付け加えたのはなぜかというと、クリティークという意味には、一応、評論という意味もあるので一概には悪く言うことだけではないんです。ただし、クリティサイズとなると、ほとんどは非難、悪く評論する、という内容になってしまうんですね。でもすべてが、というわけでもないんです。言うなれば、ほぼすべてが、というのが一番近い。100%スケールだと99%悪いことを言う、という感じで1%に何かを残している感じ。

英語で名詞+izeというのをつけると、動詞になったりしますが、それをむりやり日本語にすると「〜する」という単調な動詞に訳されがちですね。でも、ここでクリティサイズ、となると「酷評表現する」という感じのもうひとつ意味を含めた動詞になるかんじがします。これは英語を語学として学んだわけではないので、その専門の方がいらしたら是非ききたいポイントでもありますが。

だからつまり、クリティサイズする、というのは私の中で、「何かを形にハメて、どちらかというと悪いふうに表現すること」に近い感じがするんです。どうでしょうか?微妙?だから、人をクリティサイズする、ということはもっとラクに言いかえるならば「自分(あるいは既成)の基準に(勝手に)あてはめて、のことを(どちらかというと)悪く表現すること」なんです!!!あははは。説明すればするほど分かりづらくなってきますね。ドロ沼っぽい。たったひとつのcriticizeという動詞なのに、こんなに微妙な意味があるんです。少なくとも私の中では。

だから、私はこのお父さんが言う教えにはウンウン、と思うんです。私にはまだ出来ていないことなんですけど。すくなくとも「教え」という意味では、ウンウン、と深く頷きます。
私は人をグループ分けするのが基本的にキライです。「女ってこうだよね」とか「男ってこうやるよね」とか「アメリカ人ってこうだよね」とか「B型のひとってこうするよね」とか。もちろん、人のパターンを見つけるのはとても楽しいことです。

現にジョングレイ(作家)だって男は火星からきたとか言ってるじゃないですか。でもグレイ氏の正しいところは、火星人だってバラエティにとんでるっていう前提です。ああ、ヘンなところに話がいってしまいましたが、つまり、言い切り型のグループ分けには私は実は、ヘキエキします。

それ比べて「女の人は一般的にこういわれている」というやわらかな言い方の、なんとスンナリ受け入れられること!つまり言い方なんですよねぇ。要は。そんなのどうでもいいと思われるかもしれませんけど。

もっと分かりすく言うなれば、つまり、「美人は性格が悪い」じゃなくて、「美人には性格が悪い人が多いと一般的に言われている」とか、まぁそんな感じでしょうか。でもこれってやわらかく言い過ぎて逆に嫌味でクドいって感じ?例が悪かったのかもしれません。じゃあ、たとえば、「オヤジはクサい」とかが、「オヤジにはクサい人が多いかもしれない」とかね。あははは。自分で書いててウケました。

まあこのふたつの例はギャグであって、本来私が言いたいのは「あいつはバカだよ」とか「あの人全然わかってないとか「あの人には洋服のセンスがない」とかそういうふうに決めつけることが、つまり、「あいつはバカだ」といっている自分をバカではない、と想定して言っているし、「わかってない」と言っている自分は「わかっている」つもりだし、「センスない」といっている自分には「センスがある」と思っているわけでしょう?ということなんです。つまり謙虚じゃないわけなんですよねぇ。言い方なんて結局、謙虚かどうか、それを示すものだろうから。

でも実際の話、言い方なんて、結局はどうでもいいことなんです。人を非難する人がいるから人は成長するし、酷評するための既成の基準があるから自分も向上心があるわけだし。とどのつまりは、おごるな、ってことでしょう。謙虚すぎるのはよくないけれど、常に、おごるな、という。たとえば何かを知っているか、知らないか、という問題だけでいえば、「知らないでいる人を、『知らない』からといって軽蔑、非難するな。自分がそれを『知っている』ことに感謝せよ。」という感じでしょうか。何にでもあてはまりますね。実はこれ。まだThe Great Gatsbyはチャプター1さえ読み終えてませんが、これから楽しく読んでいこうと思っています。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *