日本にいます

いろいろなことがたくさんこの短い期間に起こったので何から書いていいか少し悩んでいます。コトがコトならこの私のホームページはもう一生更新されることはなかったかもしれません。でもこうして更新しているということは結果は結局ハッピーなことだったということなので安心してください。とりあえず今の状況から言うと、私は今日本にいます。私の出身地の熊本です。

10月8日、日記を更新した翌日は日記に書いた通り、シアトルであったカンファレンス(学会)に参加してきました。この学会は楽しかった上にためになったし、私達は学生ということで学会費をタダにしてもらった上に、ボランティアをさせていただいたりして本当に良かったし、実は書く事はいっぱいなのですがとりあえず、このことはまた次の機会に書きますね。そして土曜日の夜8時頃にプルマンに帰ってきました。姉から留守電が入っていて、すぐに電話してみると、そこには、私が姉のために送ってあげたPalmを実家から母が姉に届けに姉の一人暮らしの家に行っていたんですね。姉は平日は朝7時から夜の9時まで仕事だし、休日だって当直とか宅直(家に帰ってもいいけれど、病院から連絡がはいったらすぐに病院にいける範囲にいなければならない)などで銀行、郵便局があいている時間にそんなところへいけるハズもなく、しかも田舎に住んでいてコンビニでいろんな支払いを、と思ってもそのコンビニ自体がなくて、つまり社会的、事務的なことが全くできない状態にあるんです。だから私が宅急便を送ってもそれを受け取ることすらできない。それで、私は遠いけれど母にまず送ってそれを姉の住む家まで持っていってもらうという母にしてみればとっても大変なことをお願いしていたのでした。

で、電話の内容はPalmについてのことで、Macとのデータ互換のこと、日本語環境のことなどについて1時間ほど教えたりしていたんです。そこには父も遊びにきていて、父としゃべったりしていたんですがその内、「ちょっと風邪気味」という母とも電話をかわりました。母は最近買ったというDVハンディカムについて嬉しそうに話していました。コンピューターに繋ぐ!というのを目的にしたもの。その時私はシアトルから帰ったばかりで、しかも靴も脱がずにPalmのことを姉に教えていたので、ちょうどそのころお腹がすいてきて、母に「ねぇ、ちょっとお腹がすいたからあとで電話してもいい?」と言って電話を切りました。そのとき母はなんだか寂しそうに「私、ちょっと風邪気味みたいで調子が悪いのよ」と言って電話を切りました。そのあと私はあまり気にもせずいろんなものをガツガツと食べ、それから疲れていたせいで、電話をまたかけることをすっかり忘れたまま眠ってしまっていました。

翌日の日曜日、ゆっくり朝寝を楽しもうと思ってベッドの中でゴロゴロとしていた私は電話でそれを妨げられてとっても不機嫌になりました。朝の6時半くらいで、「誰よ!」という気持ちで電話をとると、父からでした。第一声が「シアトルにいっていたんだって?良かったね」でした。うちの父を知らない人は普通の会話かと思うかもしれませんが、私はこれだけで、尋常ならぬことが起こったということを知ってしまいました。電話なんてめったにかけてこない父が、しかも早朝に私に電話をしてきて何気ない話をするなんて、もうそれはそれだけで十分「異変」なのでした。私は飛び起きて、「どうしたの?どうしたの?」と大声でききました。言いづらそうに父が私に伝えたのは母が脳内出血を起こしたという事実でした。

正確に言うと、母はすでに脳内出血を「起こしていた」のでした。しばらく前から母は悪い虫歯を煩っていて、ほんの数日前にその虫歯がついに、左頬の麻痺までに発展していたというんですね。その話を聞いた父と姉は、虫歯で麻痺なんてヘンだと思い、念のために姉の職場で診てもらうことにしたということです。その日は10月10日体育の日の祝日であったにもかかわらず、姉の知り合いの先生に連絡をして、尻込みする母を無理矢理連れていって頭部のCTスキャンをとってもらったら、果たして出血している画像がとれたらしいのです。場所がとても致命的で、脳幹からでている三叉神経の核の上の血管だったので、一時はそのCTを診た姉を含む全ての先生方はもうダメだと思ったらしいのですが、とにかく救急車で熊本市内の脳外科では最先端だと言われる救命病院(済生会病院というところです)まで走ったのでした。たまたま休日で救急車にのっていくお医者さんが足りず、姉が白衣を着て乗っていったらしいです。救急車の中で、目をつぶって気分が悪そうにしている母の姿を見て、姉はもしかしたら母はこのまま眠って、あと数日しか生きられないかもしれないと思ったそうです。そのときの姉の気持ちを考えるとそれだけで私は息が止まりそうになります。

実は脳幹出血ともなると、とりあえず人はほぼ即死だそうです。母のは血管腫といって、陸上のジョイナーさんが亡くなったのと同じ種類の病気。高血圧性のものとそうでないもの、海綿状のもの(これがジョイナーさんのもの)と単発性のものと、種類もいろいろあるそうですが、母のはどうやら単発性のものだったらしいです。かなりの確率だろうと思うのですが、母は奇跡的に死をまぬがれました。麻痺も、感覚麻痺というもので、ビートたけしみたいな見た目で分る運動麻痺ではなく、自分自身が感覚がわからないだけの麻痺なので、一見普通の人と何ら変わりはありません。しかも麻痺は時間はかかることはあっても、いずれとれるそうです。

母の血管腫の大きさは直系7ミリから8ミリの、小さなもので、出血もごく微量だったらしいです。あと数ミリで脳幹に達していたということなのでそれを考えただけで気を失いそうになります。大袈裟な表現ではなく。先生も看護婦さんもみんな「運が良かったですね」と言います。運び込まれた母はICUに入れられ、父や姉も1日に10分程度の面会しか許されず、うちの父はそれから私に電話をしたのでした。そのときはそんなに重大な事が起こったとは教えてくれなくて、「ちょっとお母さんが倒れちゃったんだけど」というような内容でした。私が帰国の準備などを冷静にできるように、という配慮だったと思います。

日本では月曜日でもプルマンでは日曜日の朝に連絡を受けたので旅行会社があいているわけもなく、学校の手続きができるわけでもなく、私は途方にくれました。今考えれば友達に電話して「何をもって帰ったらいいかわからない」と相談したり、旅行バッグにぬいぐるみを4コもいれたりして、やっぱり少しおかしくなっていたと思います。自分では、「母を元気づけよう」と思って入れたんですけれど。Aが「今となっては笑えるけど、バッグにファービーが2コとMr. Beanのクマが2コだけしか入っていないのを見たときはどうしようと思ったよ」と言っていました。ホント、そのときは自分は意外にしっかりしてるなぁとか思っていたんですけれど、めちゃめちゃだったんですね。

月曜日に電話してとれたチケットが福岡まで850ドルくらいでした。水曜日のチケットですが、関空から福岡までのチケットはE-Ticket(名前を言ってIDを言うだけでチェックインできるもの)では処理できないらしくどうしてもシアトルの会社まで取りにいかないといけなかったので、火曜日にスポケンからシアトルまで飛んで、チケットをとって一泊し、翌日の水曜日に日本へ飛んで時差があるので木曜日に到着するということになったのでした。一睡もせずに飛行機にのって飛行機の中で眠れるかと思ったらそれでも一睡もできず、つらかったです。眠いのに眠れないという状況をはじめて経験しました。

熊本までのチケットは満席だった上に時間的に乗り継ぎがほとんど無理だったので福岡まで飛んだのですが、福岡までは高校時代の悪友であるSくんが仕事を5時で切り上げてくれて迎えに来てくれて、何も詳しい事はあまり聞かずに黙って済生会病院まで送ってくれました。携帯をかしてくれて「お父さんに電話したら?」と言ってくれたので父に電話してみると、母はCTをまた取り、MRIをとり、さらにリスクを伴うと言われる血管造影の検査まで済ませていました。そして結果は、父の言葉をかりると「全体的に見ると喜ばしい結果だよ」ということでした。ほっとして初めて涙がでました。

父に駐車場まででてきてもらってSくんに親子してお礼を言って病室に入ると母はベッドで青い顔をして眠っていました。私が帰国したその日にはICUから出ることを許可されて一般の病室に入っていました。母の希望で個室に入っていたので他人に気兼ねすることなく会話が出来ました。私がそこで泣いたりしたら、母が自分の病気を心配してしまう、と思ってなるべくなんでもないように会話をしようとしたんですけれど、まわりから見たらどうだったんでしょう。思ったより元気そうに見えたことは見えたのですが、その時でも母は面会謝絶の絶対安静ということになっていました。安心して初めてお腹がすいた私は、ちょうど姉が買ってきたモスバーガーを父と3人で食べようということになりました。落ち着いて座ってやっと2口くらい食べたとき、ふと母の顔を見ると、母は私があげたMr. Beanのクマちゃんを胸に抱いて、そして今思い出しても怖くなるほど、目を閉じて土気色の顔色で苦しそうにしていました。脳血管造影の検査が辛くてその痛みから一時的な超低血圧になっていたのでした。脈拍が40くらいまでに下がっていて心配な状況になったので、すぐに主治医の先生を呼んで部屋は循環器の先生や姉などを入れてたくさんのお医者さんと看護婦さんとでいっぱいになり、私はあまりに驚いて立ち上がったので情けないことに立ちくらみを起こしてしまっていました。それが第1夜。

その夜から母の病室にとまりっきりで私は付き添いをはじめました。最初はなにもかもをベッドの上でやるので休む暇もなく看護をしていましたが、3週間たった今は、母は驚くべき回復力でほとんどの事をひとりでやっています。小脳症状といって腫れた血管腫が小脳を圧迫するため、めまいや吐き気がするので目は離せませんが、ベッドに横たわっていさえすれば、見た目、気分ともにまるで普通の健康な人みたいです。本当に良かった。いろんなことが毎日たくさん起こって泣いたり笑ったり大変な日々でした。私もやっとこうしてコンピューターに向かって自分のことをする余裕がでてきました。一部心配をかけてしまったみなさんごめんなさい。私は大丈夫です。母は奇跡の力で生還です。誰に感謝していいのか分らないくらい。

泊まり込み看護の間には私の悪友たち、TとCがやってきました。それぞれ別々に違う日に病院にきてくれて、私を元気づけてくれました。Cなんて、病因の玄関でCに世界のものの中で一番似合わないであろう、大きな花束なんて持って立っていたので、私ったら意味不明な感動をしてしまって思わず涙がでてしまいました。Tは差し入れとかいって病院の自動販売機でいろいろ買ってくれたりして嬉しかったです。実は二人には福岡まで迎えに来てくれる?と電話をかけていたのでその時に母の事を少しだけ知らせておいたのでした。その中でSくんが一番快諾してくれたし、仕事にもそこまで支障がなさそうだったので(と思っているのは私だけかも)お願いしたというだけのこと。3人全員に感謝しています。

さて、これを書きはじめた時は書く事がたくさんある、と思ったんですけど書いてみたらこれくらいですね。思い出したらまた自分で覚えておくためにここに書いておこうと思います。とにかく、日本にいます。日本にいるということを実感できないくらい病院にずっといますが、私は大丈夫です。プルマンにもそう遠くない内に帰れるのではないかと思っています。

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