Camino Island(グレート・ギャッツビーを追え)

Camino Island (2017, John Grisham):英語でペーパーバックで読みました。実際に読んだのは2年ほど前なのですが、つい数週間前にAさんが興奮気味に「グリシャムのギャッツビーが村上春樹氏で出たらしいよ」と、初聞では全く意味不明のことを言うので、ぽかんとしてしまったんですが、妻として言葉足らずの彼の言葉を補うとすると、「(あなたの好きな作家であるジョン)グリシャム(が書いた小説)の(ザ・グレート)ギャッツビーが(テーマになっている推理小説を)村上春樹氏(が日本語訳をしたものが、最近日本)で出たらしいよ」と言う意味だったんですね。そう聞いて、おお、と、2年前に読んだこのカミーノアイランドのすごくよくできたプロットを思い出したので、そういえば面白かったな、いろんな有名な作家の話も出てきて、魅力的な登場人物がいっぱい出てきて、作家の世界ってこうなのかな、とふと思ったな、と色々考えたので今週再読しました。村上春樹さんの邦訳は「グレート・ギャッツビーを追え」と言うなんだかハードボイルドなんだか子供っぽいんだかわからないようなタイトルになってましたが、これはギャッツビーと春樹氏のコンビネーションがグリシャム読者層ではない人を捉えるかもしれない、と言う出版社の思惑が見え隠れするので、村上氏のつけた邦訳、と言うわけでもなさそうなんですけど本当のところはどうなんだろう。

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ザ・万歩計

ザ・万歩計(2008、万城目学):図書館で借りて読みました。万城目氏は出身が大阪で、夫の実家の近くの話が著書にちょくちょく出てくるので勝手に親近感を持っているんですけど、特に実家が近いとかではないらしく、今回このエッセイで初めて知ったんですが、「ミナミ」な方なんですね。夫の実家は完全に「キタ」の人々です。大阪つながりだからかどうかは知らないんですが、夫がかなりのレベルで万城目氏の本を読んでいて、数冊、家の本棚にあるので、帰国した時に本棚の変化をくまなくチェックする私としては、自動的に全部読んでしまう、という読書傾向にあります。奇想天外ファンタジーな方ですよね。でもエッセイは今回初めて読みました。

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ひとかげ

ひとかげ(2013、よしもとばなな):図書館で借りて読みました。たまたま今、電子書籍で読んでいるのがよしもとばななさんの本だったのでちょっと気になって手に取った感じです。実はオリジナルの「とかげ」も読んだことがなく、巻末にちゃんと収録されているのがとてもありがたかったです。そしてどっちから読むか、うんうん唸って5分くらい考えた挙句、著者がこの順番で載せているので「ひとかげ」から読むのが正解だろうと考えてページを開いたのでした。よしもとばななさんは実はイタリアでの評判がすごく良く、私の友人の数人を挙げただけでみんなしっかり知っているだけではなく私よりもずっと深く読んでいて、何がイタリア人の心を掴むのかなぁとぼんやり思っていました。私にとってみると、よしもとばななさんの本に出てくる数々の登場人物の「不幸度」のようなものがだいたい激しくぶっ飛んでいることから、私のように穏やかに幸せに甘やかされて生きてきた身には、自分と比べるどころか、想像すらできない状況にあって、そういう登場人物を描くタッチが「冷たい」とすら考えていたんですね。あのクールな感じはイタリア人の熱いハートに何か来るものがあるのかもしれません。

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カササギ殺人事件

カササギ殺人事件(2017、アンソニー・ホロヴィッツ):日本語訳で上下巻をキンドルで読みました。読後の正直な気持ちは一言で言えば「お得だったな」です。2段重ねのお花見弁当を買ったと思い込んでいたらもう一段あった!みたいなお得感。そして例によって私の読書パターン化してきましたが、一回上下巻を全部読んだ直後にもう一度全部読まなきゃいられない、というリダンダンシー(重複)感。こんなこと書くとお得なのか損なのかよくわからなくなってきますが一気読みしてまたゆっくり読みたくなる、というのは「面白い推理小説」の特徴であるに違いないので、素直に面白かった!と全力で叫びたいです。

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世界と私との間には

ひょんなことで、最近のアメリカのメイハム状態からのBlack Lives Matter運動に関してアメリカの作家、タナハシコーツ氏がインタビューに答えている記事を目にして、動かされたというようなものとは違うレベルで感情がざわざわしたのでちょっと書いておこうと思います。まず、冷めた目で世界を見ると、世界で今起きている出来事なんて、99.9999999999%の確率で全然新しいことなんかじゃないわけです。良い人、意地悪な人、攻撃的な人、弱い人、強い人、強さを装ったすごく弱い人などなど、いろんな人がギリギリの境界線の中で違うタイプの人になっていて、そして全ての行動や言動を正当にも不当にも正当化し、正しくても間違っていても自分が正しいと思い込み、打算で動いたり、仲良くしたり戦ったりしていいことや悪いことを、それと知っていて、あるいはそれと知らずに行う。そんなこと何千年も前からずっとずっと続いている全く新しくないことなわけです。で、この21世紀になって、果たして何が新しいのか、となったときにものすごく違うのが、そう言った人間の行動や言動が、他人の目に触れるに至るまでのプロセスが新しくなっている、というわけです。

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