ここ数年間、定期的に考えることなのですが、人間は種類は違うとはいえ、言語というものをあみ出して、その言語さえ通じればほとんどの意思の疎通が可能になった、ということで種として発展してきた、という事実があるのは誰でも知っていることだと思います。でも、同じことばを話すからといって、どんなに長い時間しっかり話し合ったって「なんだか分かり合えない」ということがあるのも、これも誰もが知っていることだと思います。それはもちろん、人間が基本的に、その度合いに違いはあるとは言え、嘘をつく生き物であるからというのがあります。嘘、というと語弊があるかもしれません。体裁を繕う、あるいは当たり障りのない言い訳をつける、といったそういう意味合いです。
また、たとえ嘘をつかなくても、根本的な考え方が違えば、わかり合うことが突然困難になります。例えば、「明日連絡するよ」と言ったのに連絡してこない人がいたとして、その人にとってみたら、仕事じゃないんだからそんなにガチガチに期日を守る必要がないと思っていて、その日に連絡しなかったとしますね。その人にとってみたら「明日連絡するよ」は社交辞令のようなもの、あるいは「今日は連絡できない」ということの裏返しなだけかもしれません。でも相手からしてみたら「明日連絡する」という字面通りの言葉で、次の日になって連絡がなかったとして、「連絡するって言ったから待ってたのに連絡してこない!」と怒ってしまう、ということが起こるわけですね。こういうものは、もしかしたらどんなに話し合っても、最終的に「そっかそっかそうだったんだ、あははは」と完全和解できるようなことではないかもしれないのです。なぜならそのことに関する根本的な態度と考え方がお互いに違うから。同じことを「大したこと」と「大したことでないこと」と捉えるのはあまりに違いますよね。どんなに完璧に同じ言語を話していても、言葉には限界があるわけです。
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