バリ山行

バリ山行(2024、松永K三蔵)をキノッピーで先週末に読みました。タイトルの期待と少し違って、内容は会社6割、山4割といった感じで話が進んでいきます。一人称の「私」である波多さんは山はほぼ初心者というところから話が始まるのでそれはまぁ相当のことなのでしょう。私の世代だと転職というものはやっと少しずつ珍しくなくなってきた感じなんですが、波多さんが結果的に言って意外とスルっと身軽に転職しているところを見ると私の世代よりちょっとだけ若いのかなと思います。会社には年上の皆さんが多いことから、これは昭和な会社人間との世代感覚の違いをちょっと見る感じなのかと思ってちょっとワクワクして社内の和やかだったりバチバチだったり不穏だったりする雰囲気の流れを読んでいたのですが、書いてある部分よりそれ以上に、世代間での会社感というものは大きく違うなぁと思わざるを得ない部分がいくつかありました。著者さんの感覚は私に近いのかもしれませんがやっぱりちょっと若い感じがしてしまう。どちらが正しいとか正しくないとかそういうことではなく、ぼんやり境界のあるようでないような重なり合った部分があるのにやっぱり全体が違う、という感じ。そしてこれは関係ありませんが、英語で片思いのことをクラッシュ(I have a crush on himみたいな使い方で)と言ったりしますが、これって全体的に完全に波多さんのメガクラッシュのお話ですよね。

遠回りな話になっちゃうかもしれませんが、イタリアに住んでいると「人」に助けられることがよくあります。いや、これはちょっと語弊があって、実は日本に住んでいてもどこに住んでいても結局助けられる時は「人」に助けられるんですけど、イタリアだとそれが分かりやすい、ということです。助けてくれる「人」に顔と名前がしっかりついている、という感じ。それで自分が一人では何もできないということを毎日のように実感させられて、助け助けられという「ペルファヴォーレな社会」と私が勝手に呼んでいる社会が自分の周りにあることを嫌でも実感させられるわけです。

イタリア語では「お願いします」とか「プリーズ」とかいう時にペルファヴォーレ(Per favore)といいますよね。Perは英語だとFor、FavoreはFavorです。このFavoreがニュアンス的に直訳も意訳も難しいのですが、並べてみると親切、恩恵、贔屓、優遇、援助、好意、のようなことをギュッと煮詰めたようなものなのです。つまり普段使う時は「お願いします」というシンプルな意味ではあるんですが、よーく中身を考えると「私を贔屓してください、優遇して親切にしてください、ここはひとつ援助、支援をお願いします」というような貸し借りでいう「借り」を一つ作るような感覚なんです。お店でものを買う時でも「これください」にペルファヴォーレを使うことを考えると、買う側が借りを作る、という感覚なんですね。売っていただけますか、という感覚というか。それを日々実感しながら生きていると、人に借りるばかりじゃだんだん人にも貸してもらえなくなることに気づきます。だから日常的に、人に「貸す」必要性を感じるわけですね。人に親切にしとかなければ、常に人に貸しをつくっておかなければ自分が借りなければいけない時に借りられなくなる、という危機感というか。なんだか打算的で嫌ですけど。

こういう助け合いが必要な持ちつ持たれつの社会って現代社会の、特に若い世代(とかいうと世代ハラスメントとか言われちゃうんでしたっけ、ごめんなさい)の方にとってはとても不快というかいわゆる「ウザい」社会基盤に見えてしまうと思うんですよね。なるべく人や会社とは関わりたくない、という私より若い方をたくさんお見かけしてきました。それがいいとか悪いとかそういう話ではなく、このウザさを「結局最終的には必要なものだよね」と思って(思わされて)生きてきたのが私たちの世代なのです。日本ではこのウザい人間関係を頑張らなくても生きていけるような効率的な社会ができつつあるのかもしれませんが、イタリアはまだまだです。いや、まだまだというか、多分この先もずっとこのままです。きっと永久にローマ帝国の昔からみんなが貸して借りて持って持たれて生きていく社会なのです。

それを鑑みてこの波多さんの会社を観察してみると、そういう古くさい概念を取っ払って新しい社会に、新しい価値観に対応しなきゃ、とみんながそれぞれ頑張っている中、妻鹿さんはまるで一見、一番人間関係を嫌っているようでいて実はそういった古い感覚を一番大事に思っているような人なのですね。確かに魅力的ではあります。結局波多さんを六甲山のバリに誘ってくれたしね。私だって妻鹿さんに誘ってもらえたら(ダメって言われたけどなぁ)とかクヨクヨ考えながらやっぱり「お気に入りのコバルトブルーのお高いアウター」を着ていくくらい気合を入れると思います。結局これがちょっと伏線として私の胸中をモヤっとさせたのでその後グレイな気持ちで読み続けることになったんですけど(そして無事回収)。

何が「本物」の危機か、というのもこの本のテーマであったと思うんですが、「死ぬかもしれない!」というような状況を「危機」だと思うのは、結局最後に生きている側だけだと思うので(だって死んだらもはや危機とか関係ないので)、やっぱり「どうにかして生き延びなければいけない状況」ということや「非常に大変な現状をどうにかしていい方向に持っていかなければならない状況」というようなことの方が、私にとっては「危機」という定義には当てはまるだろうなと思いました。そういう意味で「擬似危機」のようなものを人生のいろんな段階でいくつか体験しておくことはきっと練習になるし、底力になるだろうと思いました。そしてこれからの人生でたとえ本物の危機が訪れたとしても、「さあ、擬似危機が来たぞ」と思うことによってちょっと気持ちが軽くなったりして、とも思いました。メガクラッシュには結末がなかったけれど波多さんも最後に青いお花が見れてよかったね、とほんわかしたりもしました。良い読了感でした。

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