さよなら、田中さん

さよなら、田中さん(2017、鈴木るりか):確か新聞でこの若い著者が紹介されていたのを見て興味をもって読みました。賞に応募するために数時間で書き上げたという短編も入っていて、はっきり驚かされました。ちょっと全く関係ありませんが、最近のジェンダー関係の事象で「女性なのに」とか「女性初」といった表現にモヤモヤする感じが分からないでもないなと思っていたところなんですが、こういう作家がいると同じような感じで「こんなに若いのに」「まだ小学生・中学生・高校生なのに」なんて言われちゃうんだろうなと思います。そういう意味で大変申し訳ないけれど、でもやっぱり言いたい。この本の著者はこんなに若いのに、まるで全てを悟ったかのような、複雑な人生の難問の正解が見えているような、それでいて、そういうものを恥じらいなく大声で清らかに主張してしまう、若さゆえの痛々しく微笑ましいものが共存している、そんな雰囲気があります。でも素直で清らかで痛々しいものを真っ直ぐ表現することほど難しいことはないし、それをまるで簡単なことのようにあっさりスッキリ書いてあって、だからこそ、その内容が胸を突くんだな、と納得させられます。

最初の方で、母子家庭なので「お父さんがいたらどうだっただろう」と主人公が想像する場面がありますが、読んでいる私はまるで著者の母親のような目線で読んでしまうので、ああ、きっと逆に「お父さんがいなかったらどうだっただろう」と思って頑張って書いているのだろうなと安易に考えて読み始めてしまうんですね。ちょっとずつ話が進んで、友達の父親とくらべる姿、指名手配中の犯罪者かもしれないと半分冗談、半分本気で考える姿に思わず笑いながらほんわかとしている時に突然、生まれ変わるなら虫に生まれ変わりたいと摩訶不思議なことを言い出した母親に対しての主人公の思い(ネタバレになるので伏せます)にぎゅっと心を掴まれます。それはその思いを読んだ瞬間に、そうだ、恵まれている人はこういうふうに考えない、ということも洞察しているんだ、とふと気づくからなんですね。やっとここで著者の冷静な観察眼と深い考察に驚かされるわけです。素晴らしいです。年齢は関係なく。

あと気になったのは2章目の「なんだかメスのカバが神様に頼んで1日だけ人間にしてもらったらこうなりました、という仕上がりだった。」という表現が子供なんだか大人なんだか、なんとも言えずすごい。たったそれだけなのに大家のおばさんの体格までわかってしまうんですよね。そして4章目の「羨んだり、妬んだりするというのは、その人に近い事柄や自分と似たような環境、境遇の人に対して怒るのではないだろうか?」とあって、そこは真っ直ぐだなと思いました。確かにそうなんだけど、大人になるにつれ、もともと(学生の時など)は同じような境遇だったのにその後の環境の急激な変化や逆転(仕事、結婚、家庭などの変化)が起こったりして、その変化を羨んだり妬んだりする・されることはあるんですよね。そのほうが実は多いかもしれない。でもきっと著者はその年月ラインの経験をまだ実際に経てないのでこういう等身大の描写になるわけです。でもちゃんと、「ないだろうか?」という疑問で文章を終えているところがそういう意味で余白を残しているので本当に素晴らしいです。こっちもちゃんと「ん?」となります。

ずいぶん後の方で出てくるんですが「スイカ畑で靴紐を結び直すな、とか、すももの木下で冠を正すな、ってお母さんがよく言ってるよ」というところがあります。この通りではないんですが、私の母もよく同じようなことを言っていたなと思いました。お店でポケットに手を入れない方がいいとか、スーパーでバッグを開けない方がいいとか、よく言ってました。最初は「後ろ暗いところはないのだから堂々としていればいいのでは」というようなことを思っていたのですが、これはズバリ全ての悪いことから子供を守ろうとする母の愛ですね。疑われるようなことは最初からしない方がいいに決まっています。冤罪も怖いですものね。

そして気付くのが、この本は母の愛であるということ。そしてそれをちゃんと受け止めた娘の無自覚な母への愛(というより尊敬)が満ちているということ。だから私の心を掴んで離さないのだ、と最後の章でやっと気づきました。「悲しい時、腹が減っていると、余計に悲しくなる。辛くなる。そんな時はメシを食え。」と言った田中さんのお母さんが尊くて号泣しました。そして食べ物に関する仕事をしているからこそ尚更ですが、このセリフは物事の本質を突いていると思います。食事をするということは、胃に食べ物を入れるという単純な事実よりずっと大事なものをたくさん含んでいる。そしてそこに静かに流れているのは母(や母のような存在)の愛情であるということ。とても良い本でした。

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