カプリでカント

Capri職場の日本人の知り合いの方(Kさん)に誘っていただいて、先週末はカプリ島に行ってきました。相変わらず海が青いカプリです。写真は前回のリベンジを果たした形になった青の洞窟。青の洞窟は1回行けばお腹いっぱいです。綺麗ではあるんですけどね。「本物なのにかもしだされるつくりものっぽさ」と「途上国っぽいギラギラした観光地っぽさ」でいえば、私はアマルフィ側にあるエメラルドの洞窟(グロット・デッロ・スメラルド)のほうが謙虚な感じがして好きかな。
たまたますごくお天気が良くて、夜は満天の星空となりました。実は土曜日に泊まったB&Bのアントニオさんにお勧めされて、ランチをDa Gelsominaというところでいただいたのですが、テラスは綺麗だし、絶景ポイントが楽しめるお散歩コースがあったりしてとても良かったんですね。そんな絶景ポイントのひとつに唐突に大きな岩があって、ふと見るとマヨルカ焼きのタイルが埋め込まれていました。
Capriなにかの墓標かしらと思って見てみると、意外にも何故かこのカントの有名な一節。私は中学生のときに初めてカントに触れてから、なんとなく彼のお説教くささが苦手で、「こうあるべき」「こうするべき」といわれると、たとえそれが真実だとしても思春期特有のアレですけど反抗したくなってしまって、教科書にのっていた彼の下唇をつきだした赤ら顔さえ苦手でした。そんな彼のこの一節。私の当時の幼稚な理解では、「世の中知らないことだらけ(だから興味深い)」という意味になりはてていました。いや、しかもそのままこの年になるまで同じ理解だったんですね。でもその夜、Kさんがお風呂に入っているときにテラスに出てみて見上げると、満天の星空。
私たちは地球から見た状態で星座を作ったりお話を作ったりして星空を楽しむけれど、その正体は巨大な岩だったりガスだったり人間が生きていける状況は皆無だったりするんですよね。しかも同じ星座と思ってもその星同士は地球からの距離よりずっと離れていたりして、いかに私たちが「一面」しか見ていないかを思い知らされます。横から見たらどの星が何かなんてさっぱりわからないでしょう。そして話が飛ぶようですが、最近ニュースでも話題のいじめ問題ですが、いじめの定義は、本人が「いじめられている」とおもったらいじめということみたいですね。そうでしょうね。いじめている方の自覚は関係ないでしょう。うまくいえないけど、そういうことかな、とふとおもいました。星空が、今私が見ているように存在している、ということではなくて、存在しているなにものかが、今私からはこのような満天の星空として見えている、ということなのかな、と。私の中の内なるものは、こうしてまるで無関係に存在しているはるか遠くの何かと、実は非常に近いのかもしれない、と、私は急に思いました。カントさんがどういう気持ちでどんな意味を込めてこれを書いたのかは分かりませんが。
いやまさかカプリでカントについて考えるなんて面倒なことをする羽目になるとは思っても見ませんでした。今度行くときはもっとリラックスしてゆったりしたいな。

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