パリ・リュー・ドゥ・バックの教会にて。

メダイユ先日パリに行ったときに、友達から勧められて、昔は修道院だったというChapelle Notre-Dame de la Médaille Miraculeuseという教会に行ってきました。直訳すると奇跡のメダルのノートルダム教会、といった感じの名前でしょうか。教えられたまま地下鉄のセヴール・バビロヌ駅で降りて、コンランショップやボンマルシェを見ながらてくてくリュー・ドゥ・バックまで歩くと、ここかな?というような入り口があって急になんだか荘厳な静けさがただよっています。教会の入り口まで続く細い道の壁には、この教会のいわれや有名な奇跡のメダルのお話が絵で描かれていたりして、フランス語がわからない私にもふーん、という感じです。最後のつきあたりの壁にはしっかり英語でも説明があったので、私はそこでこの教会と奇跡のメダルについての全てをやっと知ることができたのでした。詳しくはWikiやこちらのサイトでどうぞ。写真はつい興味を持って買ってしまったカタリナ・ラブレのお話の青いブックレットと、右奥にあるのがお土産のメダイユです。
まぁキリスト教にはありがちなお話といえばそうなんですが、私がいつも思うのは、どんな宗教でも、神様がいてもいなくても、信じていても信じていなくても、静かな場所で自分と向き合うと不思議に方向性が見えてくる事があるなぁということです。私は明日香村の大仏さまの前でも、このメダイユ教会のカタリナ・ラブレが見たマリアさまの前でも、ふと神妙な気持ちになっていろいろなことをしっかり考えたり、私には感謝すべき人が、自分が思っているよりもずっとたくさんいることに改めて気づいたりしました。だから、つまりはそういうことなんだと思っています。カタリナさんも私も、自分と向き合って、カタリナさんの場合はマリアさまが話しかけますが、私の場合は私自身が私に話しかけます。
しばらく観光客そのもので呆然とキレイなマリアさまを見ていたら、この教会にいた修道女の人が小声の英語で「ちょっと失礼、あなたには奇跡は必要ではないでしょう?」と私に話しかけました。唐突だったのでびっくりしながらも、確かに必要ないなと思って頷いたら(正確には否定疑問文だったので首を横にふったんですが)、「ほら、あなたって幸せでしょう?」とにっこりしました。私もそのあたりに幸せ感を振りまいていた意識はないんですが、そういわれてみると、私って心底幸せかもしれない、と思ってその日一日がほんわかと良い一日になりました。そして後で思ったんですが、そんないろんな人が集まる教会で、中には本当に奇跡が必要な人、どうしても何かに助けを求めなければいけない状況の人というのがいるのですよね。そしてそう思った後すぐに、それは「そういう人がいる」ということではなく、私でも誰でも「そういう時がある」ということなんだと理解しました。今の私にとっては「お土産」にしかすぎない、ここで1ユーロ程度で打っている「奇跡のメダイユ」には、そういう「時」に何かの意味がついてくることになるのでしょう。まだよくわからないけれど、そういうふうに思いました。
このメダイユは転売すると価値がなくなるということですが、人にあげるのはとてもいいことだそうです。私も大事な人の数をしっかり数えて買いました。本当に幸せな事に、その大事な人々の中で奇跡が今必要な人はいませんが、私があげるこの小さなメダイユを見てちょっぴりほんわかしてもらえれば、と思っています。

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