How to Be Good

20051007_howtobegood.jpgHow to Be Good (Nick Hornby)
前にもちょこちょここの本を読んでいたときにこちらこちらにも書いていたんですが、日本に帰ってくる飛行機の中で読み終えたのでとりあえず自分のためにメモしておこうかと思いました。タイトルの異常な真面目さに反して、とても軽い調子で始まるお話で、そんなに「よい人のなり方」というような感じではないんですね。割と笑えるし面白いし。そしていろいろと不満や納得いかないもやもやは残るものの、結局私は、今この時期にこの年齢でこのタイミングでこの本を読んでよかったなと思いました。私の転職先のことを考えるとなおさらです。最後の部分が、私がなんとなく考えていた結論だったので、今までは漠然と「結局こうなんじゃないかな」と思っていたことが、この著名な作家も結局同じような結論に至っているんだ、と思うと、なんというか、同じ考え方の仲間(?)がまだいそうだ、と思えて、自信のなかった自分なりの結論を「これでも良いはず」と思えてよかったです。下のほうに細かい感想続きます。
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79ページ。

‘It’s not what you do wrong. It’s what we all do wrong.’
‘Which is?’
‘We don’t care enough. We look after ourselves and ignore the weak and the poor. We despise our politicians for doing nothing, and think that this is somehow enough to show we care, and meanwhile we live in centrally heated houses that are too big for us…’

別にこれがなんということもないんですが、私はこれに賛成しているわけでも反対しているわけでもなくて、いやぁ、本当に欧米社会ってセントラルヒーティング充実してるよなぁ、と単純に思っただけです。バンコクは暑いけど部屋は異常に寒くなりがちで(クーラーで)、温度管理はわりと難しいところなので、これを読みながらぼんやりそう思っただけです。でも、真ん中のWe despise..のところは、まあ、そうだよね、と思いました。でもだからといって何ができるんだろう、というところがこの本のすべてのコンセプトといっても良いでしょう。私はこの本の最後の最後の結論に賛成です。つまり、ネタバレで申し訳ないですけど、結局家族や近い人々を大事にすることによって、家族と仲良く、助け合ったり理解しあったり(難しくとも)するのに努力をすることによって、それがめぐりめぐって世界の人々に「良くしている」ということになるんじゃないか、ということ。私もそう思う。
そして199ページ。

‘When?’ And still I can hear a snort in my voice, as if I don’t believe him, as if he is somehow trying to put one over on me. ‘I don’t know. When we came back from our honeymoon. It was a fantastic day. I was so happy. I just didn’t want to forget it.’

これは卑怯だなーと思ったので。私も意味なく泣けました。でもどうして、そういう気持ちが薄れたりするんでしょうね。ある一人の人をものすごく大事に思って、一緒に時を過ごして、すごく楽しい日々を一緒に送って、それにとても感謝して、それで私は十分だ、ほかになにもいらない、って本当に思ったとしても、それから10年20年経つとそれすらも忘れなければならないほどいろいろなことが複雑になるものなんでしょうか。私はそうは思わないけれど、でもきっとそういう場合もあるんでしょうね。やっぱり感謝すべきことへの感謝の気持ちは自分で書き留めるなりなんなりして、努力をしても覚えておくべきことなんだと思います。
これを読んで、誰かに何かを「してあげる」という行為は、結局のところ何かを「してあげたいからしてあげる」という「自分の欲求」にしかすぎず、そしてそれは別に恥ずべきことでもなければ、疑問に思うことでもないのではないかなーと思えました。これは途上国援助とかそういった果てしなく大きなことにもそのまま当てはまるのじゃないかな。だから、たとえ他の人が「してあげたい」と思わなかったにしても、それもまた別に恥ずかしいことでもなんでもないと思うんですね。だって結局個人の欲求にすぎない、というポイントがあるから。そして結局「してあげたい」という気持ちに何の偽りもなければ、何の下心もなければ、それは相手が感謝するにせよ大きなお世話だと思うにせよ、いずれにしてもやっぱり恥じるようなことではないのではないかしら、とこの本を読んで思いました。そして、たとえ自分が「してあげたい」という気持ちにならなかったとしても、それは別に罪の意識にかられるようなことではなくて、単純にその「欲求」が起こらなかった、ということなのじゃないかと。無理に「思うべき」とかそういうのに縛られて行動したところで、良い結果は生まれないのではないかと、そう思ったわけです。

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