偉い人が決める英語教育は良い方向へ向かっているか

なんかスゴいタイトルですが、すんごいシリアスに日本の英語教育システムに熱い想いを馳せてみました。数日前に、例の村上龍氏主催のJapan Mail Media (JMM)から来たメールのひとつ、「[JMM268F]「英語の達人…」オランダ・ハーグより」を読んでいて、いろいろ考えたのでちょっと考えをまとめることにしました。このメールマガジンを購読してない方で、読んでみたい方がいらしたら、フォワードしますので私にメールくださいね。


この内容は、日経新聞の「英語の達人」というコラムを書いてらっしゃる、東京大学教授の斎藤兆史(よしふみ)先生の意見をとりあげ、基本的に諸手を上げて大賛成している、というものです。その斎藤先生のポイントは3つ。

1. 日本語能力こそ語学力の源泉
2. 会話重視の教育は間違い
3. 完全なバイリンガルなど不可能

というものなのですが、私も諸手どころか、あと2本手があったら4本全部あげて賛成したい、と思ったのです。
まず話の都合上自慢から入ることになってしまいますが、ご容赦くださいね。まず、私は文章の上手下手は置いておいて、とにかくひたすら書くのが大、大大好きです。ココロにある自分の気持ちをひたすらせっせと言葉にするという作業も好きだし、それをちまちまとこうしてタイプしたり、文章にしていく作業というのは、ヘンな話、なんだか取り憑かれたようにやってしまうちょっとジャンキーな興奮を伴うものだという実感すらあるほどです。
それは不思議なことに、言語を問わず(といっても私が他になんとかお話できるのは英語だけですが)、英語であってもどうやら同じみたいなんですね。論文などの、ちょっとかしこまった形の文章であっても、私が発見したこと、データのまとめ、などなど言葉にして形にしていく作業はとにかく好きです。だから、私にとっては、マルチプルチョイス系の試験勉強をしろ、といわれると、うへぇーとなってやる気もなくなりますが、明日までにこの内容でペーパーを20枚書け、といわれても、おお、20枚か、とは思うかもしれませんが、なんとなく嬉々として取りかかるだろうと思います。
つまり何がいいたいかというと、私が何か勉強をするときに、それが日本語であろうが英語であろうが、結局、得意(好き)なこと、そうじゃないことはほぼ同じということです。ということは、要は英語はツールでしかなく、ここに、「英語」という科目が好きかどうか、という問題は皆無といっていいほどないのです。少なくとも、私は今までの人生で「英語が好き」と思ったことは、これは大げさでもなんでもなく、一度もありません。好きどころか、嫌いと思ったことすらあるくらい。
ただ、私は国語は好きでしたね。それは確実に言えます。高校では読書感想文を書いてあげるアルバイトをしていたほどです(ひとつ500円という、今思えば格安のバイト。もう少しとればよかった)。小学校でも中学校でも高校でも、国語の教科書を受け取ると、その日はその教科書にのっている読み物を全部読んでいました。古文でも漢文でも、そのときは分析なんかしないのでなぜ好きなのかは分かりませんでしたが、今となって思うと、何かココロのなかに形のないものとしてふわふわ浮かんでいる感情や気持ちが、言葉となって字となって(たしかに言葉というものの限界はあっても)つづられている、ということが何かものすごく私の興味をひいたんだろうなぁと思います。国語の教科書なんて、丁寧に、問題付きですからね。「ここで筆者は何を暗示しているか」なんて問題があるとわくわくして答え探しをしていました。
エラそうに言いますが、私は英語で何かを読んでいても、同じ気分を持つことが多くあります。要は、本当に、英語、というのはツールであって、文章をくみとったり、簡潔に言ったり、人を傷つけないように使ったり、逆に攻撃的に使ったりというのは、少なくとも私にとっては日本語だろうが英語だろうが、結局は同じくらいのレベルで行っていると思うのです。
私は、グラマーの間違いがひとつもない英語の10枚以上のペーパーを書いたことはない、とハッキリ言えます。でも、日本語で書いても同じだろうと思うのです。日本語として間違いのまったくない10枚以上の作文を書く自信はない。実は私に、惜しみなく、「あなたの文章力は素晴らしい」と賛辞をくれる数少ないふたりがいるのですが、そのふたりとは友達でもう卒業してしまったブレンダと、私のアドバイザーのバル。バルは私の師なので、もしかしたら、私を励ましてくれるために言ってくれているだけかもしれない、というコトがあるのでここでは言葉半分で聞いて、感謝しておくことにしますが、ブレンダはすごかった。彼女は自分のクラスの宿題でペーパーがあるたびに、私にもってきて、話の流れと言葉遣いをどうか訂正して、と言ってました。そのかわり、わたしのミス、”a”とか”the”とか単数とか複数とか時制とか、そういった「英語が母国語ではない人」がよく間違えるミスを、教えてくれていましたが。私はそんなに英語での文章力に自信があったわけではなかったのですが、そのブレンダがまるまる2年間そうやって私をほめ続けてくれたおかげで、なんとなく、そうか、私もちょっとはできるのかもしれない、というセルフエスティームにつながったほどです。
まとめると、私はいわゆる「国際社会」にいるわけではなく、単にアメリカに、日本人として生活しているだけなのでこのあたりの見解は全く多面的ではないかもしれませんが、私の「文章を書くのが好き」という気持ちは、今のところ、言語を問わない、ということですね。英語と日本語の2コを比べたくらいでエラそうなことは言えないかもしれませんが。
ゆえに、ですね。斎藤先生のおっしゃる、1. 日本語能力こそ語学力の源泉、というのに深く、ふかーーく、頷いてしまうわけです。会話力、とかそういうのは「語学力」というよりはどちらかというと環境的、性格的なもの。日本語でもおしゃべりなひとはおしゃべりだし、社交性があるひとはある、ないひとはない、キチンとした会話ができるひとはできる、失礼なことばっかり言っているひとはいる、というように、結局会話力というのは文化背景と、そしてその人の性格などにかなり起因する力だと思うのですね。逆に、語学力というのは「物事をロジカルに考えることができ、そのロジカルに考えた事柄を人に伝えることができる」という能力を含んでいると、ものすごく思うのです。日本語で物事を簡潔に、正しく、キレイに伝えることができるひとが、ツールとしての英語を学ぶと、英語で同じことができる、と私は強く思います。そして悲しいことに逆もアリ。日本語を良く扱えない人は、どんなにツールとしての英語を学んだとしても、英語を良く扱えないと思うのです。
そして、2. 会話重視の教育は間違い、というのにも絶望的に賛成します。なぜなの?日本の偉い方々。会話は、だいたい3ヶ月、必要にせまられれば誰でもできるようになるのに。もうすぐ会社の出張で海外へ、となったら人は必要にせまられて会話くらいできるようになる。高校卒業してすぐの18歳の留学生は、1ヶ月もしないうちにアメリカ人の友達と仲良く遊んでますよ。”How’s goin’?”が理解できなくてもその人の教養の深さは変わらないと思うのです。しかも、「学校」「大学」というところが教えるのはそんな、「会話教室」で学べる、あるいはちょっと外国に行けば学べることであってはいけないはずなのに。このもどかしさは、悲しいほどですね。小学校で英会話を導入するほどだったら、日本語教育にもっともっと力をいれて、語学習得というものに、どれだけ、正しい語学センスというものが必要かを叩き込んだ方が100億倍は効果的だと思う。私はもっともっと、日本語というものを、学校という場所で、理論として学びたかった。そしたら私の現在の英語力もまた違ったものになっていたと、強く思います。
最後に、3. 完全なバイリンガルなど不可能、という部分、真理だと思います。そんなのを意味なく目指すと痛い目にあいます。そんなこと不可能、と謙虚にわきまえるのは非常に必要です。アメリカにも、両親が日本人の子供達がいっぱいいて、英語を自在にあやつり、日本語も理解して、どちらも完璧な発音で、「おお」と思うこともありますが、それは、何かを確実に犠牲にしているのですよ。日本語が理解できても日本の社会を知らない。近所の人との日本式のつきあい方はしらない。だからといって、アメリカでも、完全にアメリカの社会を経験しているかというと、そうでもないのです。小さいころに日本語教育のために放課後お友達と遊ぶ時間を割いて、日本語の学校にいったりしているのです。両親は自分ほど英語ができないから、ココロのどこかで、そのあたりの部分での両親への尊敬すら失ったりするらしいですよ。
人間の生命に限界があるように、時間枠の中で学べることには限界があると思うのです。英語教育に力を入れればいれるほど、なにか大事な日本語の能力をちょっと横に寄せてしまっている、という重大なリスクを日本の偉い人は忘れているような気がするのです。
ところで、ここまでダラダラと熱い想いを書いて思いましたが、読んでくださった方がいらしたらお分かりのように、私の文章力なんてこんなもんです。分からないところ、意味不明なところなどあっても目をつぶってやってください。ご想像通り、英語で書いてもだいたいこんなもんです。語学力って深いなぁと思います。精進します。

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