アンソロポロジーと男性社会

えっと、今日はひとつ賢くなって、プルマントランジット(バス)を利用しましたね。ええ。学生カードさえ提示すればタダですものね。利用しないと。近くのバス停から毎時間20分と50分にでているらしい。帰りは帰りでブックストアの横から毎時間14分と44分にでていることがわかりました。金曜日まで車がないことになっているので、しばらくお世話になろう。
今日は、いま取っているクラスについて書こうと思っています。それは以前にも紹介したAnthropology(人類学)のクラス。私の知り合いの日本人にこの分野を専攻しているヒトが3、4人いるのですが、前までは、「なーんであんな地味な分野を専攻にしてるんだろう?」と思っていましたが、このクラスを取ってから、かなり考えがかわりました。実は、かなりのレベルで面白いです。地味だなんて思っててごめんなさい。無知なだけだったんです。


基本的に、私はこのフィールドに関しては、全く知らなかったのですが、それでもいろいろなことが私の興味をひきました。まず、どんなにフェミニズムが叫ばれても、どうして「男社会」というものが依然として存在するのか、ということが形をなして理解できるようになったとおもいます。
たとえば、料理。料理、と聞くと、やっぱりほとんどの人が「女性」を連想しますよね?また、裁縫。これも女性のフィールドだと思いがちですよね?でもね、よーく考えると、実は、トップクラスといわれるヒト達はいくら女性のフィールドであっても「男性」なんです。名コックといわれるヒトはみんなほとんど男性だし、一流のファッションデザイナーだって、どう考えても男性が多い。
これは「昇進しやすい=男」といった差別とかそういうのではなさそうなんですね。もちろんそういうのもあるのかもしれませんが。基本的には、ものすごーく、人類学、特に人類発展を考える部分に関係しているみたいなんです。いわゆるアンソロポロジスト、つまり人類学者達は、いろんな説をたてて、このことを考えてきました。初期には、「体のサイズやパワーが生まれつき違うので男社会ができた」という説が強かったみたいですが、アフリカだかブラジルだかの、オスとメスがほとんど同じサイズのチンパンジーの社会がオス社会であるのを発見して、その説は危うくなりました。
オスが、ハンティングをしていたから、という説もあります。ハンティングをするには、武器をつくったり、矢に毒をぬったり、などなど「知恵」が必要ですよね?で、男性の方が、先に発達し、脳が大きくなり、女性よりも上位にたった、という考えです。でもね、フィリピンにAgtaという民族がいるんですが、そこでは女性もハンティングするんですよね。しかも、その族では完全に男性上位。ということで、この説もカンペキではないんです。
セクシュアリティが原因だった、という説では、本能的に男のヒトは女のヒトに興味を持ちますよね?その段階では女性が上位にたっても良さそうなんですが、そこで男性は女性をめぐって争う、という状況が生まれたり、女性をトレードの対象にしたり、とついには男性が仕切る形の社会がうまれた、ということが説明されています。女性は、男性が女性を「モノにしたい」と考えるようには、男性を「モノにしたい」と思わない、という本能的な部分での違いがありますからね。
実は、これといった決定的なものは、この答えにはなさそうなんです。きっとこんなアイディアのコンビネーションだと思っていいのではないかと思うんですが、科学では説明できない、本能的な何かが、男の人を「のめりこむタイプ」にし、「専門家」にし、強くし、ステイタスを上げていくのではないでしょうか?つまりそんなに物事シンプルではない、ということですね。
これは別のトピックになりますが、ぼんやりこのクラスの関する書籍を読んでいたら、日本の社会を研究した記事を発見しました。アメリカ人が書いているのですが、私は「研究論文」として、こんなに面白い記事を読んだのは生まれてはじめてでした。タイトルも、「日本の母親とお弁当」(Japanese Mothers and Obentos)です。サブタイトルが、The Lunch-Box as Ideological State Apparatusです(これは日本語に訳すると、かえって混乱をまねきそうですね。うーん、強いていえば「観念をあらわすモノとしての弁等箱」かなあ?「観念状態の用具である弁当箱」?まあ、勝手に意訳すると、「単なる『ランチ入れ』ではなく、人々の考えや気持ちを表わすモノとしてのお弁当箱」というような意味でしょう)。
これを読み始めたときは、単に「ふーん、アメリカ人から見ると、そう見えるのかー。実はそんなにとりたてて騒ぐ程のことではないのになー。」なんて思っていましたが、それは私の大間違いでした。私は単に、「意識していなかった」あるいは「意識できていなかった」だけであって、その人が書いていることは、よくよく考えるとすべて真実なんです。
その著者が例のひとつとして取り上げていた記事は、主婦の友の別冊付録かなんだかのお弁当特集で、そのタイトルが「初めてのお弁当は親も子も緊張します」なんですよねー。アメリカ人はそのへんのペーパー袋にサンドイッチとりんごとパック牛乳を放り込んだものがランチバッグだと思っているので、きっと「たかだか弁当くらいでなーにが緊張なんだ?」と思うのは無理がない気がします。
お弁当は、母の愛であり、さらに「よその子と比べて」勝るように、と無意識に力を入れるものであり、芸術であり、責任であり、母子のつながりなのです。
この記事34ページにわたる大作だったのですが、ひさしぶりに満足して読みおえました。興味がある方は英語でよければメールでお送りしてもいいですよ。おしらせください。明日は歴史のクラスの試験です。勉強しまーす。

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